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壬申の乱
日期:2015-10-24 13:24  点击:323
 天智天皇の死後、弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)と息子の大友皇子(おおとものおうじ)が後継者を争って、古代最大の争乱といわれる壬申の乱が起きました(672年)。当時は父の後をその子供が継ぐというルールが確立しておらず、兄弟相続も見られたことが戦いの一因となったのです。
 
 天智天皇も当初は、白村江の戦いから大津宮への遷都などの苦難をともに乗り越えてきた弟の大海人皇子を皇位継承者として認めていました。しかし、大友皇子が成長すると、やはり我が子がかわいくなり、しだいに大海人皇子を遠ざけるようになりました。
 
 大海人皇子は暗殺を恐れて、病床の天智天皇に、皇位に野心のないことを示すため出家の意志を告げて、大津宮から100kmも離れた吉野に引きこもります。それでも、世間は「虎に翼をつけて野に放ったようなものだ」と、大海人皇子を野放しにした怖さを噂しあったといいます。
 
 天智天皇の死後、大友皇子は弘文天皇として即位し、吉野攻めの準備を始めます。それを知った大海人皇子は、東国からの大友皇子への支援ルートをさえぎるため鈴鹿関をふさぎ、自軍を組織します。大海人皇子への信頼・同情や弘文天皇への反発もあり、中小豪族や没落した中央豪族などが大海人皇子方につきました。不破関から近江に入り、大津宮を襲います。
 
 戦いは1ヶ月で終わり、敗北した大友皇子は自殺しました。大海人皇子は都を飛鳥に戻し、飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)で即位して天武天皇となりました。 
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