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光明皇后
日期:2015-10-24 13:27  点击:424
 古代には、皇后は「おほきさき」と呼ばれていました。律令時代以後は「皇后」と書き、その次に「后」と「夫人」を置いていました。当時の日本の皇室は濃厚な血族結婚であり、皇后はつねに皇族出身者でした。ところが聖武天皇が皇太子だったころ、藤原不比等の三女・安宿媛(あすかべひめ)を夫人にし、10数年後に皇后としました。初めて人民出身の皇后となったのが光明皇后(第45代聖武天皇の皇后)です。
 前例のないことだったため、宮廷でも異議があったらしく、天皇はわざわざ長い詔勅を出して弁明しています。安宿媛の女性としての魅力にくわえて、どうしても皇后の地位に昇進させたい慈悲、聡明さを備えていたのでしょう。
 
 そして光明皇后が天皇にあたえた精神的影響力はたいへん大きかったようです。皇后は天皇に仏教を尊信することをすすめ、天皇は、日本の各地に七重の塔を持つ国分寺と国分尼寺を建立しました。さらには、この小さな島国に、唐にも天竺(インド)にも存在しない三国一の大伽藍・東大寺を建立したのです。この世界的大事業には、朝鮮や中国からのみならず、インドのバラモンやトルコ人まで参加したといいます。
 
 もっとも、莫大な国費を使うものであったため、事業を始めるに際し、天皇は慎重をきわめました。カミとホトケの関係もありました。まず天平14年(742年)に橘諸兄を伊勢神宮に遣わして、この寺を建てる神勅を乞います。また宇佐八幡宮にも勅使を出して、応神天皇の霊の託宣を得ます。そのうえで天平15年10月15日に着手することを発表、天平勝宝4年(752年)に大仏開眼供養を迎えるまで10年を費やす大事業でした。
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