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清少納言について
日期:2015-10-24 13:29  点击:446
 『枕草子』の作者である清少納言。この呼び名は本名ではなく、一条天皇の中宮・定子に仕えたときの女房名とされます。「清」は歌人として有名だった父・清原元輔の姓「清原」の略称、「少納言」は、当時の慣習で夫・父・兄など近親者の官名からきていますが、誰が少納言だったかは不明です。生没年も不祥で、966年ころの出生ではないかと推定されています。
 若くして橘則光(たちばなののりみつ)と結婚し、一子・則長(のりなが)を生みましたが、則光とは離別、その後宮仕えに出仕、後に藤原実方(ふじわらのさねかた)と再婚しましたが長続きせず、晩年には藤原棟世(ふじわらのむねよ)と結婚して小馬(こま)という女子を出産したらしいという説が一般的です。
 
 晩年には父・元輔の旧邸があったところで、定子の御陵にも近い月輪(つきのわ)(今の京都市東山区今熊野町)に住み、60歳近くで没したのではないかといわます。後世の説話として、零落した晩年生活であったとか、地方を流浪したとか伝わっていますが、これは美女、才女の流浪伝説にすぎないと考えられます。
 
 清少納言が、定子に出仕した時期は、993年ごろ、定子18歳、清少納言は28歳のときです。当時は定子の父、関白・藤原道隆の全盛期であり、明るく聡明な定子の庇護のもとに、才能を十分に発揮した清少納言にとって、宮中生活は意にかなうものであったようです。
 
 道隆が没し、道長の世となった後は、後身のない定子の後宮はにわかにさびれましたが、清少納言は献身的に定子に仕えました。
 
 宮廷を辞去したのは、定子が24歳で崩御した後、ある期間の服喪を終えてからと考えられています。約10年間の宮仕えでした。
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