菊池の財布を見て雄一はいった。昼休みに、売店でパンを買おうとしている時だった。すぐ前に立っている菊池が財布を手にしているのだが、そこにいつも付いているキーホルダーの飾りが消えていた。小さな達磨だったと雄一は記憶していた。
「そうなんや。昨日の夕方気づいた」菊池は渋い顔をした。「あれ、結構気に入ってたんやけどな」
「どこかに落としたわけか」
「そうらしい。しかし、この鎖がそう簡単に切れるかなあ」
安物なんだろ、といいかけて雄一は言葉をのみ込んだ。そういう軽口は、この男には厳禁だった。
「ところで」菊池が声を落としていった。「昨日、『ロッキー』を見てきた」
「へえ、そらよかったな」雄一は相手の顔を見返した。ほんの少し前は、入場料の高さを嘆いていたくせに、と思った。
「意外なところから映画館の特別優待券が手に入ってなあ」雄一の疑問を見抜いたように菊池はいった。「おふくろが客からもろたらしい」
「ふうん。それはついてるなあ」
菊池の母親が近くの市場で働いているという話を雄一は聞いていた。
「ところが調べてみたら、有効期限が昨日までや。あわてて出かけたがな。何とか最終の上映に間に合《お》うたからよかったけど、あぶないところやった。まあ考えてみたら、期限が切れる寸前やなかったら、そんな優待券をくれるわけないな」
「かもしれんな。で、映画はどうやった?」
「めちゃくちゃよかった」
この後しばらく映画の話で盛り上がった。
昼休みが終わりそうになって教室に戻った時だった。同級生の一人が雄一に声をかけてきた。担任教師が呼んでいるという。担任はクマという渾名《あだな》の理科教師だ。本名は熊沢という。
職員室に行くと、熊沢は深刻そうな顔をして雄一を待っていた。
「天王寺《てんのうじ》署から刑事さんが来てる。おまえに話を聞きたいそうや」
雄一はびっくりした。「何のことですか」
「おまえ、清華の女子生徒の写真を撮ってるそうやな」熊沢は濁った眼球で、雄一の顔をじろりと見た。
「あっ、いえ……」突然の指摘に、雄一は口ごもってしまった。肯定したも同然だ。
「まったく」熊沢は舌打ちをして立ち上がった。「ばかたれがつまらんことしくさって。学校の恥じゃ」そして、ついてこいとばかりに顎をしゃくってから立ち上がった。
応接室で待っていたのは三人の男だった。一人はいつか屋上で出会った生徒指導の教師だ。教師は眼鏡の奥から、じろりと雄一のことを睨みつけてきた。
後の二人は知らない男たちだった。一方が若く、もう一方が中年だ。どちらも黒っぽい地味な背広を着ていた。この二人が刑事らしい。
熊沢が雄一のことを彼等に紹介した。その間刑事たちは彼のことを、爪先から頭の先まで舐めるように観察していた。
「清華女子学園中等部の近くで生徒の写真を盗み撮りしとったというのは君か」中年の刑事が訊いてきた。穏やかな口調に聞こえるが、底にこもった凄みは教師たちにはないものだった。この声だけで雄一は気持ちが萎縮してしまった。
「いえ、あの……」舌がもつれそうになった。
「向こうの生徒が見てるんや、君のその名札をな」刑事は雄一の胸元を指差した。「わりと変わった名字やから、記憶に残ったらしい」
まさか、と雄一は思った。
「どうなんや。正直にいうたほうがええで。写真を撮ってたんやろ?」刑事は重ねて訊いた。隣で若い刑事も雄一を睨みつけてくる。生徒指導の教師は苦りきっていた。
「はい……」雄一は仕方なく頷いた。熊沢が大きくため息をついた。
「おまえは、そんなことして、恥ずかしないんか」生徒指導の教師が吃りがちにいった。後退した額が赤くなっていた。
「まあまあ」中年刑事は教師をなだめるしぐさをしてから雄一のほうに目を戻した。「写真を撮る相手は決まってるのか」
「はあ」
「名前は知ってるな」
はい、と雄一は答えた。声がかすれた。
「ここに名前を書いてくれへんか」刑事は白いメモ用紙とボールペンを出した。
雄一はそこに、『唐沢雪穂』と書いた。刑事はそれを見て納得した顔をした。
「ほかには?」刑事は訊いた。「ほかにはおれへんのか。この子を撮ってただけか」
「そうです」
「この子が君のお気に入りというわけか」刑事は意味有りげに薄笑いをした。
「俺の……僕のお気に入りというより、友達のお気に入りなんです。それで僕が写真を撮ってやってただけです」
「友達の? なんでわざわざ君が撮ってやるんや」
雄一は俯き、唇を噛《か》んだ。それを見て刑事は、何かに気づいたようだ。
「ははあ」刑事はおかしそうにいった。「その写真を売るわけか?」
いい当てられ、雄一はぴくりと身体を動かしてしまった。
「おまえというやつは」熊沢が吐き捨てるようにいった。「あほか」
「写真を撮ってたのは君だけか。ほかに同じようなことをしていた者はおれへんのか」中年の刑事が訊いてきた。
「知りません。いないと思います」
「すると時々清華のグラウンドを覗いていたのも君か。よう覗いている者がいたと、あちらの生徒さんたちがいうてるんやけどな」
雄一は顔を上げた。「それは僕と違います。本当です。僕は写真を撮ってただけなんです」
「すると覗いていたのは誰なんやろ? 君、心当たりはないか」
それは牟田たちだろうと思ったが、雄一は黙っていた。しゃべったことが後で連中にばれたら、どんな目にあわされるかわかったものではなかった。
「心当たりはあるけど、いいたくないという感じやな。下手に隠したら君のためにようないんやけどなあ。まっ、ええやろ。そしたら昨日の放課後からの行動を、できるだけ詳しく話してもらおか」
「えっ」
「昨日の行動や。どうした? いわれへんのか」
「いったい何があったんですか」
「あきよしっ」熊沢が怒鳴った。「訊かれたことに答えろ」
「まあいいじゃないですか」ここでもまた中年刑事が、興奮気味の教師をなだめた。刑事はかすかに笑みを浮かべて雄一を見た。「清華の近くで、あそこの女子生徒が悪戯《いたずら》されそうになったんや」
雄一は顔が強張るのを感じた。「僕、何もやってません」
「君が犯人やというてるわけやない。ただ先方の生徒さんの口から、君の名前が出てきたからねえ」刑事は相変わらず穏やかな口調でいった。だがその言葉の下には、現時点ではおまえのことを最も疑っているのだぞというニュアンスがこめられていた。
「僕、知りません。本当に……」雄一は首を振った。
「だったら、昨日どこで何をしていたか、話せるんやないのかな」
「昨日は……学校の帰りに、本屋とレコード屋に寄りました」
思い出しながら雄一はいった。それが六時過ぎで、その後はずっと家にいたのだ。
「家では御家族と一緒?」
「はい。母と一緒でした。九時頃には父も帰ってきました」
「家族以外の人はいなかったわけや」
「はあ……」答えながら雄一は、家族の証言ではだめなのかなと思った。
「さて、どうするかな」中年の刑事は、隣にいる若い刑事に相談するように呟いた。「写真を撮ったのも自分のためやないと秋吉君はいうてるわけやけど、その言葉を信用する根拠もないしなあ」
「そうですね」若い刑事は同意した。口元に嫌な薄笑いが滲《にじ》んでいた。
「本当に友達のために撮ったんです」
「そしたら、その友達の名前を教えてもらおか」中年刑事がいった。
「えっ……」
雄一は迷った。ここで黙り続けて、妙な疑いをかけられるのは嫌だった。
その時、絶妙のタイミングで刑事はいった。「大丈夫や。君がしゃべったことは誰にもいわへんから」
まるで雄一の心を見透かしたような一言だった。この台詞で、彼は決心した。
雄一はおそるおそる牟田の名前を口に出した。それを聞いた途端、生徒指導の教師がうんざりした顔を見せたのは、何か問題が起きた時に、必ず出てくる名前だったからだろう。
「清華のグラウンドを覗いてた者の中にも、牟田君は入ってたのかな」中年刑事は訊いた。
「それは、わかりません」雄一は、ぱりぱりに乾いた唇を舐めた。
「牟田君に頼まれたのは唐沢さんの写真だけ? ほかの女の子の写真は頼まれへんかったのかな」
「ほかには、ええと」どうしようかなと思ったが、雄一は隠さずに話すことにした。ここまできたら、もう同じだ。「最近になって、もう一人頼まれました」
「どういう子かな」
「フジムラミヤコという子です。僕はよう知らんのですけど」
この瞬間、部屋の空気がぴんと張りつめたように雄一には感じられた。刑事の顔つきにも変化があった。
「それで、その子の写真は撮ったんか」低い声で訊いてきた。
「まだです」
そう、と刑事は頷いた。
「もう撮りに行くなよ」熊沢が横から怒りを含んだ声でいった。「そんなあほなことをするから、妙な疑いをかけられるんや」雄一は黙って頷いておいた。
「もう一つ確認しておきたいことがあるねん」刑事がビニール袋を出してきた。「この中のものを見たことはないか」
袋の中には小さな達磨が入っていた。雄一は驚いた。それは菊池が持っていたキーホルダーの飾りに間違いなかった。
「知ってるようやな」刑事が彼の表情に気づいていった。
またしても雄一は心が揺れた。これが菊池のものであるといえば、どういう事態を招くことになるのだろう。今度は菊池が疑われることになるのだろうか。しかしここで下手に嘘をつくと、益々まずいことになるかもしれない。それにこれが菊池のものだということは、自分がしゃべらなくてもいずれわかるかもしれないのだ――。
「どうや?」刑事が机をこつこつと指先で叩きながら促してきた。その音が針のように雄一の心をちくちくと刺した。
雄一は唾を飲み込むと、その小さな達磨の持ち主の名前を小声でいった。