「はい、ハンカチ」
サカイ氏が玄関で靴をはいていると、妻が四つ折りのハンカチを差し出す。ハンカチのあいだから伊藤博文公が渋い顔をのぞかせていた。
毎朝の習慣である。亭主の必要経費は一日千円也。サカイ家ではここ二年ばかりずっとその額に決まっている。昼食代が社員食堂で食べて三百円前後。タバコ代が二百円。残りがコーヒー代その他になる。月給日にはこれとはべつに三万円の小遣いを受け取る。不満はあるけれど、月給の総額を考えれば仕方があるまい。
それにしてももう少し節約ができないものか。毎日の千円札がそっくりへそくりになって残る方法はないものか。われながらスケールの小さい話だと思うのだが、サカイ氏はときどきそんなことを考える。
昼食代は外まわりの仕事が多いので、得意先でご馳走になることもある。思い切ってタバコをやめようか。それにしてもコーヒーはこのごろめっきり高くなった。タバコをやめるよりコーヒーをやめるほうが節約になるのだろうが、仕事のあいまにチョイと喫茶店のソファに背を預けてウエイトレスを観賞し、週刊誌をめくる、あのささやかな休息の味もサラリーマンには貴重なものだ。結局、毎日千円を妻からもらい、千円だけ使ってしまうよりほかにないらしい。
その日の昼さがり、サカイ氏はオフィスのデスクの前で書類の整理をしていた。時刻は午後三時、一息入れてみたくなる時間帯である。となりの席のシマノ氏がなまあくびを噛み殺した。
「なんとなく眠たい日だな」
と、サカイ氏が声をかけた。
「ああ、そうだね」
「コーヒーでも飲みに行くか」
言ったとたんに�しまった�と思った。
課長が聞き耳を立てている。いや、べつに勤務時間中にコーヒーを飲みに行ってはいけないと、それをきびしくとがめられるような雰囲気の職場ではなかったが、わざわざ課長に宣言してサボるわけにもいかない。
「うん、まあいい」
シマノ氏が曖昧につぶやく。
二人の様子を見ていた課長がニヤニヤ笑いながら席を立って、近づいて来た。
——なにか言われるぞ——
サカイ氏は首をすくめた。
「サカイ君」
声は笑っている。小言ではなさそうだ。
「はい」
「コーヒーをただで飲む方法を教えてあげようか」
「はあ?」
「今すぐ地下の喫茶室へ行ってごらん。なんだったらシマノ君も一緒に行って来たらいい。十五分くらいボクが電話番をしていてあげるから」
目顔でうながすのでシマノ氏とサカイ氏は席を立った。
——はて? 地下の喫茶店でサービスでもやっているのだろうか。そんな話、聞かなかったが——
小首を傾げながらエレベーターを降り喫茶店のドアを押した。
「いらっしゃいませ」
いつもと変った様子はない。
「なんかサービスしてんの? 無料でコーヒーを飲ませるとか」
「いいえ」
ウエイトレスは怪訝な顔で返事をするだけだ。
「課長にかつがれたらしいぞ」
「まあ、いいよ。少し休んで行こう」
十五分ほど雑談をして二人は店を出た。
「どうだった?」
課長に尋ねられ、
「いえ、べつに。いつもの通り一ぱい三百円取られましたよ」
「アハハハハ」
課長が愉快そうに笑った。
「暗算は得意のほうかね」
「いいえ」
「でもやさしい計算だからな。かりにキミたちの年収を七百万円としよう。ボーナスを別として計算すれば月給四十万円くらいだな。一方、一ヵ月に日曜が四回、祝祭日が月平均一回、年次休暇で一日くらいは休むだろう。一月を三十一日と考えてもキミたちの労働日はせいぜい月に二十五日以下……」
「はあ?」
「四十万円を二十五でわると、一日一万六千円の収入となる。働いている時間はせいぜい七時間だろうから、一時間の収入は一万六千円を七で割って二千三百円くらい。勤務時間中に喫茶店へいって、十五分ほど油を売っていれば、その十五分の給料は五〜六百円に相当する。なんにも仕事をしないで、それだけ収入があるんだから、つまりキミたちは無料のコーヒーを飲んでいるのと同じことになるんだよ。アハハハ」
課長はもう一度高笑いをした。