夜、十時を過《す》ぎてかかって来る電話には、必ず明《あけ》美《み》が出る。
これが、塚《つか》原《はら》家の、いわば「不《ふ》文《ぶん》律《りつ》」だった。
実《じつ》際《さい》、十本の内九本までは、高校一年生の一人《ひとり》娘《むすめ》、明美にかかって来るものなのだから、それは合理的な決りでもあったのである。
この夜も、十時を少し回ってかかって来たクラスメートからの電話を取って、明美は三十分近くもしゃべっていた。
「——よく、ああもしゃべることがあるもんだな」
茶の間で新聞を開いていた塚原は、呆《あき》れて言った。「毎日、学校で会ってるんだろうに」
「出歩かれるよりいいでしょ」
妻《つま》の啓《けい》子《こ》が、やっと台所の片《かた》付《づ》けを終えて入って来ながら言った。「向うからかかったんだから、うちが払《はら》うわけじゃないし」
啓子は、ケチというほどでもないが、至《いた》って現《げん》実《じつ》的《てき》なタイプである。
「すっかり手が荒《あ》れちゃって……。今の洗《せん》剤《ざい》は強いのね」
「手《て》袋《ぶくろ》をすりゃいいじゃないか」
「はめてやったら、二日で三枚、お皿《さら》を割《わ》ったわ。もったいなくて」
塚《つか》原《はら》は黙《だま》って、新聞を眺《なが》めていた。——今夜も、かかって来ないのかな。
塚原修《しゆう》造《ぞう》は、今《こ》年《とし》四十八歳《さい》になる。頭が禿《は》げ上っているのは、もう三十代の後半からで、三十で結《けつ》婚《こん》するときには、早くも多少薄《うす》目《め》になりかかっていたのだ。
丸《まる》顔《がお》で、どちらかといえば童顔の印象があり、また、その印象の通り、至《いた》って控《ひか》え目でおとなしい性《せい》質《しつ》だった。
妻《つま》の啓《けい》子《こ》も似《に》たようなもので、目立つ女ではない。夫より五つ若《わか》い四十三だが、むしろ少し老《ふ》けて見えるのは、あまり格《かつ》好《こう》や着る物に構《かま》わないからかもしれなかった。
「——じゃ、明日《あした》ね。バイバイ」
やっと、明美の電話が終る。
至って物静かな両親から、どうして生れて来たのかと首をかしげたくなるくらい、陽気で明るい娘《むすめ》である。
「あんまり長話は悪いわよ」
と、啓子が言った。
「こっちからかけても同じくらいしゃべるんだもん。お互《たが》いさまよ」
素《す》直《なお》に、「はい」と言わなくなって、すでに久《ひさ》しい。もう、啓子も諦《あきら》めの境《きよう》地《ち》だった。
明美が二階へ上りかけると、また電話が鳴った。——啓子が、ため息をついた。また三十分!
「はい、塚《つか》原《はら》です。——はい、ちょっとお待ち下さい」
明美は廊《ろう》下《か》から、「お父《とう》さん、電話よ」
と呼《よ》んだ。
「そうか」
「女の人。会社の人だって」
とうとうかかって来た! 塚原は、興《こう》奮《ふん》を押《お》し隠《かく》して、立ち上った。
「お父さんの彼女《かのじよ》じゃないの?」
と、からかう明美をちょっとにらんでおいて、塚原は受話器を手に取った。
「もしもし。——ああ、君か。どうした?——うん。——うん、そうか。間《ま》違《ちが》いないね。——分った。どうもありがとう」
話は至《いた》って簡《かん》単《たん》に終った。一分もかからなかったろう。
しかし、受話器を戻《もど》すとき、塚原の手は小《こ》刻《きざ》みに震《ふる》えていた。
もし、目のいい明美がそばで父親の顔を見ていたら、緊《きん》張《ちよう》と興奮に表《ひよう》情《じよう》も失《う》せ、顔面の筋《きん》肉《にく》がこわばっているのに気付いたに違《ちが》いない。だが、幸い明美はさっさと階《かい》段《だん》を上ってしまっていた。
「——何のご用だったの?」
塚原が茶の間に戻《もど》ると、妻《つま》の啓《けい》子《こ》が訊《き》いたが、塚原の方は耳に入らない様子で、
「おい、電話帳はどこにあった?」
と言い出した。
「電話帳? あの分《ぶ》厚《あつ》いやつ?」
「いや、うちで作ってる——電話番号の控《ひか》えだ」
「それなら、台所よ。どこへかけるの?」
「津《つ》村《むら》のところだ」
「あなた、津村さんのところなら、年中かけてるじゃないの。憶《おぼ》えてるでしょう」
「いや、こんな時間だ。万一かけ違《ちが》えたら、相手に迷《めい》惑《わく》だ」
——啓《けい》子《こ》は当《とう》惑《わく》顔《がお》で夫を眺《なが》めた。いつもなら、そんなに気の回る夫ではないのである。
塚原は台所の柱に引っかけてあったメモ帳を持って来ると、電話の所へ戻《もど》った。
「津村、津村……」
と呟《つぶや》きつつ、〈つ〉のページをめくる。
ダイアルを回す手も、まだ少し震《ふる》えていた。——念のため、申し添《そ》えておくと、塚原の家の電話は、プッシュホンなどという洒落《しやれ》たものでなく、オーソドックスなダイヤル式であった。
呼《よび》出《だ》し音が二度聞こえたところで、向うの受話器が上った。
「津村でございます」
妻《さい》君《くん》だ。一種独《どく》得《とく》の、甘《あま》ったるい声を出すので分る。
「あ、あの——塚原です」
声が喉《のど》に引っかかって、なかなか出て来ない。
「まあ、いつもどうも。——お風邪《かぜ》ですの?」
「いや、そういうわけではありません」
塚《つか》原《はら》は、咳《せき》払《ばら》いをして、「——失礼」
「ちょっとお待ち下さい。今、お風《ふ》呂《ろ》から出たところなので。——あなた」
少し間があって、「塚原さんよ」
と言っている津《つ》村《むら》華《はな》子《こ》の声が聞こえた。
「もしもし、お待たせしました」
津村の、いかにも生《き》真《ま》面《じ》目《め》な声。
「ああ、塚原だ」
と、少し声を低くして、言った。「今、電話があったよ。明日《あした》だそうだ」
電話の向うで、津村が緊《きん》張《ちよう》する気配が、塚原にも感じられた。
「明日ですか」
と、津村が言った。「間《ま》違《ちが》いないんですね?」
「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だと思うよ。予定通り、確《かく》認《にん》してくれ」
「ええ。よく分っています」
津村は、気持を落ちつかせるためか、大きく息をついた。「いよいよですね。待ちに待った日が——」
「おい、津村君」
塚《つか》原《はら》はちょっとあわてて、「奥《おく》さんに聞こえないか?」
「今、風《ふ》呂《ろ》へ入《はい》るとこですから、大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》ですよ」
「そうか。——まあ、あんまりかたくならないようにしよう」
「そうですね。何も心配はないんだし……」
「そう。大して難《むずか》しい仕事じゃない」
「今夜はぐっすり眠《ねむ》るようにしますよ」
「そうしよう」
塚原の顔に、やっと笑《わら》いが浮《うか》んだ。
——電話を切って、塚原は茶の間に戻《もど》った。何だか、一仕事して来たようで、疲《ひ》労《ろう》を感じる。
「明日《あした》は、ちょっと遅《おそ》くなるかもしれない」
と、塚原は言った。
「そう」
「打ち合せというか、要するに接《せつ》待《たい》なんだ。帰りは何時になるか分らない。先に寝《ね》ていてくれ」
「珍《めずら》しいわね。最近は、あんまり交《こう》際《さい》費《ひ》も出ないんでしょ?」
「安く切り上げるさ」
塚原は、少し冷《さ》めかけたお茶を飲んだ。もう、手は震《ふる》えていない。
「安く、っていえば……」
と、啓《けい》子《こ》は、ちょっと二階の方を気にして、「明美のピアノの先生、月《げつ》謝《しや》がまた上るのよ。どうしようかしら……」
「どうするっていっても——」
「別に音楽学校へ進むわけでもないんだし、もっと安い先生に変えさせようかしら」
「当人が、今の先生をいやだって言ってるのならともかく、楽しんで行ってるみたいじゃないか」
「そりゃそうだけど」
「それぐらい、何とかなるさ」
——そうだとも、と塚《つか》原《はら》は、心の中で呟《つぶや》いた。
明日《あした》になれば——うまく行けばの話だが——一億円が俺《おれ》たち三《ヽ》人《ヽ》の手に入るんだ。
少々の月謝の値《ね》上《あが》りなんか、どうってことないさ。あの、中古のピアノだって、買い替《か》えられる。グランドピアノにでもするか……。
「それで、いくら上るんだって、月謝?」
と、塚原はつい無《む》意《い》識《しき》の内に、啓子に訊《き》いていた。
塚原からの電話を終えて、津《つ》村《むら》は、せかせかと部《へ》屋《や》の中を歩き回った。
といって、そんなに広いわけではない。公《こう》団《だん》住《じゆう》宅《たく》の3DKに、やたらと家具が多い。
歩けるスペースは限《かぎ》られているから、同じコースをグルグル回っているだけなのである。
「とうとう来たぞ……。ついに、その日はやって来た!」
いささか芝《しば》居《い》がかった口調で呟《つぶや》いている津《つ》村《むら》光《みつ》男《お》は三十六歳《さい》。いわゆる「ベビーブーム」に生れた世代で、入学、就《しゆう》職《しよく》、結《けつ》婚《こん》、と常《つね》にラッシュにもまれて来た。
だから、まださほど老《ふ》けているという年齢《とし》ではないのだが、どことなく諦《あきら》めの境《きよう》地《ち》に達した人間の穏《おだ》やかさをそなえている。
激《はげ》しい執《しゆう》着《ちやく》心《しん》とか、どろどろした欲《よく》望《ぼう》とかにはあまり縁《えん》のない人《ひと》柄《がら》だった。アッサリと淡《たん》泊《ぱく》で、く《ヽ》せ《ヽ》がない。
誰《だれ》からも嫌《きら》われもしないが、目立つこともない。また、自ら目立とうという意思も持っていない。
従《したが》って、当然のことながら、あまり出世もしないのである。
見た目も、まあ「十人並《なみ》」というか「平《へい》凡《ぼん》」というか、良く言えば「見《み》飽《あ》きない」顔をしている。このところ少し太って来たのは、ビールを飲むせいかもしれない。
「ハクション!」
津村は派《は》手《で》に一つクシャミをした。
それも当然で、風《ふ》呂《ろ》上りで塚《つか》原《はら》の電話に出て、そのまま裸《はだか》にバスタオル一つ、腰《こし》に巻《ま》きつけて、歩き回っていたのである。
「——そうか。電話をかけなきゃ」
津村は、クシャミのおかげで、ハッと我《われ》に返った。
先に服を着ようか、と思ったが、もし妻《つま》の華《はな》子《こ》が風《ふ》呂《ろ》から出て来てしまうと困《こま》る。
「そう長話になるわけでもないしな」
と呟《つぶや》くと、電話に手を伸《の》ばした。
向うがなかなか出ないので、津《つ》村《むら》は、ちょっと苛《いら》々《いら》しながら、浴室の方へ目をやった。
しかし、向うは独《ひと》り暮《ぐら》しなのだから、なかなか出られないことだってあるだろう。それは仕方ない。
「——はい、浦《うら》田《た》です」
ああ、やっと出たか。
「あの、もしもし。——津村です」
「どうも」
何だ、いやに落ちついてるな、と津村は思った。
「ええと——塚《つか》原《はら》さんから電話をもらったんで、それで……。明日《あした》、ですね」
「そうです」
「じゃ、予定通りで……」
「そうです」
浦田京《きよう》子《こ》の言い方は、いつもながら、素《そつ》気《け》ないものだった。——明日、一億円が手に入るかどうかという期待に、胸《むね》を踊《おど》らせている風でもなかったのだ。
津村は、電話を切った。
浦田京子から塚原へ、塚原から津村へ、そして津村が浦田京子へと、確《かく》認《にん》電話を入れる。——「三人組」の打ち合せ通り、連《れん》絡《らく》網《もう》は終結した。
「やれやれ……」
津村は、浦田京子の冷静な口調で、少し緊《きん》張《ちよう》がほぐれるのを感じた。
そうだ。あんまり固くなってピリピリしてたら、何かヘマをやるぞ。リラックスして、いつも通りの顔で出社して、仕事をするんだ。
三人の中で一番落ちついているのは、浦田さんかもしれないな、と津村は思った。
「ハクション!」
津村は、また派《は》手《で》にクシャミをした。——まだバスタオル一つの裸《はだか》だったのだ。
これじゃ、明日《あした》風邪《かぜ》を引いて熱でも出しかねない。津村はあわてて下着を出して来た。
「あら、あなた——」
妻の華《はな》子《こ》が、風《ふ》呂《ろ》から出たところだった。
当然、夫と同様、バスタオルを体に巻《ま》きつけただけである。
「まだ裸でいたの?」
「え? いや——ちょっと電話をかける用があったんだ」
「服を着てからにすればいいのに」
と、華子はクスクス笑《わら》った。
華子は二十九歳《さい》だが、子《こ》供《ども》がいないせいか、まるで自分が子供みたいなものである。五人兄《きよう》妹《だい》の末っ子で、のんびりおっとり育ったので、およそ浮《うき》世《よ》離《ばな》れしている。
「うん。ただね。思い立ったときにかけないと忘《わす》れちまいそうで……」
と、津《つ》村《むら》は曖《あい》昧《まい》に笑《わら》いながら言った。
「私が出て来るのを待ってたの?」
津村はキョトンとして、妻《つま》の顔を見た。
「——たまには悪くないわね。新《しん》婚《こん》のころにはよくあったわ。一《いつ》緒《しよ》にお風《ふ》呂《ろ》に入って、そのままベッドに——」
「そ、そうだったね。でも、シーツが濡《ぬ》れて後で大変だったぜ」
「洗《せん》濯《たく》するのは私なんだから、構《かま》やしないじゃないの……」
華《はな》子《こ》の目がトロンとして来る。——こりゃ、だめだ。もうその気になっちまってる。
津村は、抱《だ》きついて来た華子の、まだ湯上りのほてりの残った体を抱きとめて、明日《あした》のことばっかり考えて、変に緊《きん》張《ちよう》して眠《ねむ》れなくなるよりは、いっそ……と思った。
「よし、行こう!」
津村は、華子をヒョイとかかえ上げて、言った。
浦《うら》田《た》京子は、ちょうどそのころ、自分のアパートのお風呂に浸《ひた》っていた。
六畳《じよう》一間に、三畳くらいのダイニングキッチンという、ごくありふれた造《つく》り。お風呂も、のんびり手足を伸《の》ばすほどの大きさではなかった。
「明日《あした》だわ……」
と浦《うら》田《た》京子は呟《つぶや》いてみた。
いよいよ、明日が決行の日。
そう自分に言い聞かせてみても、浦田京子は一向に興《こう》奮《ふん》も緊《きん》張《ちよう》もして来なかった。それは、ある意味では寂《さび》しいことでもある。
既《すで》に、会社に十八年。三十八歳《さい》になった独《どく》身《しん》OL。
少々のことでビクついたり、あがったりすることのないのは当り前としても、何しろ明日は一億円という大金を——それも、まともな手《しゆ》段《だん》でなく——手に入れようとしているのだ。少しは気負いや恐《おそ》れの気持があってもいいような気がするのだが、まるでなし。
何だか、手帳にでもメモしておかないと、忘《わす》れて帰っちゃいそうだわ、と浦田京子は、苦《く》笑《しよう》混《まじ》りに思った。
会社の中でも、「怖《こわ》いものなし」で通っている京子だが、当人は、デリケートな神《しん》経《けい》の持主と自負している。
「これじゃ、ちょっと怪《あや》しいわね」
と、湯《ゆ》舟《ぶね》につかって、京子は呟いた。
一人で、のんびりとお風《ふ》呂《ろ》に入っている、この時間が、京子は一番好《す》きだった。これでもっと広いお風呂——温《おん》泉《せん》みたいな——だといいんだけど。
京子の趣《しゆ》味《み》は、時々一週間ぐらい休みを取って、田舎《いなか》の温泉に行き、一日に五回も六回もお湯に浸《ひた》って、のんびりと過《すご》して来ることだった。
これはもうずっと若《わか》いころからのことで、
「年《とし》寄《より》じみてる」
と、よくからかわれたものだが、最近は結《けつ》構《こう》若い人たちの間で、温《おん》泉《せん》ブームになっている。分らないものだ。
京子はたっぷり一時間近くかけて入浴を済《す》ませてから、パジャマを着て、TVをつける。教育TVの、ドイツ語講《こう》座《ざ》を見るのである。
ちょうどTVの真正面にちゃぶ台を持って来て、寺小屋よろしく正《せい》座《ざ》する。テキストとノート、鉛《えん》筆《ぴつ》。きちんと並《なら》べる。
学校と違《ちが》うのは、大きなモーニングカップでインスタントコーヒーを飲むことぐらいだ。
仕《し》度《たく》を終えると、ちょうど番組が始まる。このタイミング、いつも十秒とずれることはない。
TVに、日本人の講《こう》師《し》が出て来て、
「皆《みな》さん今《こん》日《にち》は」
とにこやかに挨《あい》拶《さつ》する。
京子の方も、つい、今日はと言いそうになってしまうのだ……。
京子は、地味で目立たない女《じよ》性《せい》である。
もちろん、その辺の係長辺《あた》りよりはずっと古顔だから、みんなも一目置いているが、別に口やかましいとか、とげとげしいところはない。仕事もきちんとこなすので、上司に頼《たよ》りにされている。
しかし——虚《むな》しいのだ。どこか、ポカッと穴《あな》があいたようで。時々、寒々とした風が、京子の中を吹《ふ》き抜《ぬ》けて行くのである。