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世界の指揮者16
日期:2018-12-14 22:07  点击:265
  クリュイタンスは、私は、いつか彼が大阪の国際フェスティバルにパリ音楽院管弦楽団を率いて登場した時に、二、三回きいただけである。その時のプログラムは、今正確に思い出せないが、ブラームスの交響曲があまり気に入らず、ラヴェルに非常に感心した覚えがある。ほかに、ベートーヴェンやベルリオーズもあったはずだろうし、ドビュッシーもきっときいたのだろうが、それらはみんな明確な思い出として、浮かんでこない。
 今、この原稿を書きながら、どうしてかな? と考えてみているところである。私のクリュイタンス論——というのも、大袈裟《おおげさ》だが——は、このことと深い関係があるだろう。
 私は何も自分がきいた音楽会、音楽家のすべてについて明確な思い出をもっているなどとは、考えたこともなく、そんな記憶力などというものは、超人的であるというより、むしろ、何か別の頭脳の作用で補われ、つけたされたものではなかろうかと疑ってみたくもなる。少なくとも、私自身についていえば、それはありえないことである。
 しかし、では音楽会というものはみんな忘れてしまうものか、といえば、もちろん、そうではない。こんなことは、何もわざわざ書く必要もない。みんなが知っていることだ。だが、何が残り、何が消えてゆくのか? 私たちは、何をきこうと考えて、演奏会に出かけて行き、その時、何をつかんで帰ってくるのか? そのつかんだものは、どのくらい強く深く、私たちの内部で働く力となり、その作用はどのくらい、長つづきするのか? もし、ある音楽、ある音楽家から与えられた感銘が比較的早いうちに、色あせてしまうとしたら、それはどういう感銘だったのだろう?
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