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薤露行: 二 鏡(2)
日期:2021-01-10 23:30  点击:293

 去れどありのままなる世は罪に濁ると聞く。住み倦(う)めば山に遯(のが)るる心安さもあるべし。鏡の裏(うち)なる狭き宇宙の小さければとて、憂(う)き事の降りかかる十字の街(ちまた)に立ちて、行き交(か)う人に気を配る辛(つ)らさはあらず。何者か因果の波を一たび起してより、万頃(ばんけい)の乱れは永劫(えいごう)を極めて尽きざるを、渦捲(ま)く中に頭(かしら)をも、手をも、足をも攫(さら)われて、行くわれの果(はて)は知らず。かかる人を賢しといわば、高き台(うてな)に一人を住み古りて、しろかねの白き光りの、表とも裏とも分ちがたきあたりに、幻の世を尺に縮めて、あらん命を土さえ踏まで過すは阿呆(あほう)の極みであろう。わが見るは動く世ならず、動く世を動かぬ物の助(たすけ)にて、よそながら窺(うかが)う世なり。活殺生死(かっさつしょうじ)の乾坤(けんこん)を定裏(じょうり)に拈出(ねんしゅつ)して、五彩の色相を静中に描く世なり。かく観ずればこの女の運命もあながちに嘆くべきにあらぬを、シャロットの女は何に心を躁(さわ)がして窓の外(そと)なる下界を見んとする。
 鏡の長さは五尺に足らぬ。黒鉄(くろがね)の黒きを磨(みが)いて本来の白きに帰すマーリンの術になるとか。魔法に名を得し彼のいう。――鏡の表に霧こめて、秋の日の上れども晴れぬ心地なるは不吉の兆なり。曇る鑑(かがみ)の霧を含みて、芙蓉(ふよう)に滴(した)たる音を聴(き)くとき、対(むか)える人の身の上に危うき事あり。然(けきぜん)と故(ゆえ)なきに響を起して、白き筋の横縦に鏡に浮くとき、その人末期(まつご)の覚悟せよ。――シャロットの女が幾年月(いくとしつき)の久しき間この鏡に向えるかは知らぬ。朝(あした)に向い夕(ゆうべ)に向い、日に向い月に向いて、厭(あ)くちょう事のあるをさえ忘れたるシャロットの女の眼には、霧立つ事も、露置く事もあらざれば、まして裂けんとする虞(おそれ)ありとは夢にだも知らず。湛然(たんぜん)として音なき秋の水に臨むが如く、瑩朗(えいろう)たる面(おもて)を過ぐる森羅(しんら)の影の、繽紛(ひんぷん)として去るあとは、太古の色なき境(さかい)をまのあたりに現わす。無限上に徹する大空(たいくう)を鋳固めて、打てば音ある五尺の裏(うち)に圧(お)し集めたるを――シャロットの女は夜ごと日ごとに見る。
 夜ごと日ごとに鏡に向える女は、夜ごと日ごとに鏡の傍(そば)に坐りて、夜ごと日ごとのを織る。ある時は明るきを織り、ある時は暗きを織る。
 シャロットの女の投ぐる梭(ひ)の音を聴く者は、淋(さび)しき皐(おか)の上に立つ、高き台(うてな)の窓を恐る恐る見上げぬ事はない。親も逝き子も逝きて、新しき代(よ)にただ一人取り残されて、命長きわれを恨み顔なる年寄の如く見ゆるが、岡の上なるシャロットの女の住居(すまい)である。蔦(つた)鎖(とざ)す古き窓より洩(も)るる梭の音の、絶間(たえま)なき振子(しんし)の如く、日を刻むに急なる様なれど、その音はあの世の音なり。静(しずか)なるシャロットには、空気さえ重たげにて、常ならば動くべしとも思われぬを、ただこの梭の音のみにそそのかされて、幽かにも震うか。淋しさは音なき時の淋しさにも勝(まさ)る。恐る恐る高き台を見上げたる行人(こうじん)は耳を掩(おお)うて走る。

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