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薤露行:三 袖(2)
日期:2021-01-10 23:36  点击:342

 ランスロットは腕を扼(やく)して「それこそは」という。老人はなお言葉を継ぐ。
「次男ラヴェンは健気(けなげ)に見ゆる若者にてあるを、アーサー王の催(もよおし)にかかる晴の仕合に参り合わせずば、騎士の身の口惜しかるべし。ただ君が栗毛の蹄(ひづめ)のあとに倶(ぐ)し連れよ。翌日(あす)を急げと彼に申し聞かせんほどに」
 ランスロットは何の思案もなく「心得たり」と心安げにいう。老人の頬(ほお)に畳める皺(しわ)のうちには、嬉(うれ)しき波がしばらく動く。女ならずばわれも行かんと思えるはエレーンである。
 木に倚(よ)るは蔦(つた)、まつわりて幾世を離れず、宵(よい)に逢(あ)いて朝(あした)に分るる君と我の、われにはまつわるべき月日もあらず。繊(ほそ)き身の寄り添わば、幹吹く嵐(あらし)に、根なしかずらと倒れもやせん。寄り添わずば、人知らずひそかに括(くく)る恋の糸、振り切って君は去るべし。愛溶けて瞼(まぶた)に余る、露の底なる光りを見ずや。わが住める館(やかた)こそ古るけれ、春を知る事は生れて十八度に過ぎず。物の憐(あわ)れの胸に漲(みなぎ)るは、鎖(とざ)せる雲の自(おのずか)ら晴れて、麗(うらら)かなる日影の大地を渡るに異ならず。野をうずめ谷を埋(うず)めて千里の外(ほか)に暖かき光りをひく。明かなる君が眉目(びもく)にはたと行き逢える今の思(おもい)は、坑(あな)を出でて天下の春風(はるかぜ)に吹かれたるが如きを――言葉さえ交(か)わさず、あすの別れとはつれなし。
 燭(しょく)尽きて更(こう)を惜(おし)めども、更尽きて客は寝(い)ねたり。寝ねたるあとにエレーンは、合わぬ瞼の間より男の姿の無理に瞳(ひとみ)の奥に押し入らんとするを、幾たびか払い落さんと力(つと)めたれど詮(せん)なし。強いて合わぬ目を合せて、この影を追わんとすれば、いつの間にかその人の姿は既に瞼の裏(うち)に潜む。苦しき夢に襲われて、世を恐ろしと思いし夜もある。魂(たま)消(ぎ)える物(もの)の怪(け)の話におののきて、眠らぬ耳に鶏の声をうれしと起き出でた事もある。去れど恐ろしきも苦しきも、皆われ安かれと願う心の反響に過ぎず。われという可愛(かわゆ)き者の前に夢の魔を置き、物の怪の祟(たた)りを据えての恐(おそれ)と苦しみである。今宵(こよい)の悩みはそれらにはあらず。我という個霊の消え失(う)せて、求むれども遂(つい)に得がたきを、驚きて迷いて、果ては情なくてかくは乱るるなり。我を司(つかさ)どるものの我にはあらで、先に見し人の姿なるを奇(く)しく、怪しく、悲しく念じ煩うなり。いつの間に我はランスロットと変りて常の心はいずこへか喪(うしな)える。エレーンとわが名を呼ぶに、応うるはエレーンならず、中庭に馬乗り捨てて、廂(ひさし)深き兜(かぶと)の奥より、高き櫓(やぐら)を見上げたるランスロットである。再びエレーンと呼ぶにエレーンはランスロットじゃと答える。エレーンは亡(う)せてかと問えばありという。いずこにと聞けば知らぬという。エレーンは微(かす)かなる毛孔(けあな)の末に潜みて、いつか昔しの様に帰らん。エレーンに八万四千の毛孔ありて、エレーンが八万四千壺(こ)の香油を注いで、日にその膚(はだえ)を滑(なめら)かにするとも、潜めるエレーンは遂に出現し来(きた)る期(ご)はなかろう。
 やがてわが部屋の戸帳(とばり)を開きて、エレーンは壁に釣(つ)る長き衣(きぬ)を取り出(いだ)す。燭にすかせば燃ゆる真紅の色なり。室にはびこる夜(よる)を呑(の)んで、一枚の衣に真昼の日影を集めたる如く鮮(あざや)かである。エレーンは衣の領(えり)を右手(めて)につるして、暫(しば)らくは眩(まば)ゆきものと眺(なが)めたるが、やがて左に握る短刀を鞘(さや)ながら二、三度振る。からからと床(ゆか)に音さして、すわという間(ま)に閃(ひらめ)きは目を掠(かす)めて紅(くれない)深きうちに隠れる。見れば美しき衣の片袖は惜気もなく断たれて、残るは鞘の上にふわりと落ちる。途端に裸ながらの手燭(てしょく)は、風に打たれて颯(さ)と消えた。外は片破月(かたわれづき)の空に更(ふ)けたり。

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