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薤露行:四 罪(2)
日期:2021-01-21 23:50  点击:286

 夫に二心(ふたごころ)なきを神の道との教(おしえ)は古るし。神の道に従うの心易きも知らずといわじ。心易きを自ら捨てて、捨てたる後の苦しみを嬉(うれ)しと見しも君がためなり。春風(しゅんぷう)に心なく、花自(おのずか)ら開く。花に罪ありとは下(くだ)れる世の言の葉に過ぎず。恋を写す鏡の明(あきらか)なるは鏡の徳なり。かく観ずる裡(うち)に、人にも世にも振り棄(す)てられたる時の慰藉(いしゃ)はあるべし。かく観ぜんと思い詰めたる今頃を、わが乗れる足台は覆(くつが)えされて、踵(くびす)を支(ささ)うるに一塵(いちじん)だになし。引き付けられたる鉄と磁石の、自然に引き付けられたれば咎(とが)も恐れず、世を憚(はばか)りの関(せき)一重(ひとえ)あなたへ越せば、生涯の落(お)ち付(つき)はあるべしと念じたるに、引き寄せたる磁石は火打石と化して、吸われし鉄は無限の空裏を冥府(よみ)へ隕(お)つる。わが坐(す)わる床几の底抜けて、わが乗る壇の床崩(くず)れて、わが踏む大地の殻(こく)裂けて、己れを支うる者は悉く消えたるに等し。ギニヴィアは組める手を胸の前に合せたるまま、右左より骨も摧(くだ)けよと圧(お)す。片手に余る力を、片手に抜いて、苦しき胸の悶(もだえ)を人知れぬ方(かた)へ洩(も)らさんとするなり。
「なに事ぞ」とアーサーは聞く。
「なに事とも知らず」と答えたるは、アーサーを欺けるにもあらず、また己(おのれ)を誣(し)いたるにもあらず。知らざるを知らずといえるのみ。まことはわが口にせる言葉すら知らぬ間に咽(のど)を転(まろ)び出(い)でたり。
 ひく浪(なみ)の返す時は、引く折の気色を忘れて、逆しまに岸を噛(か)む勢(いきおい)の、前よりは凄(すさま)じきを、浪自(みずか)らさえ驚くかと疑う。はからざる便りの胸を打ちて、度を失えるギニヴィアの、己れを忘るるまでわれに遠ざかれる後には、油然(ゆうぜん)として常よりも切なきわれに復(かえ)る。何事も解せぬ風情(ふぜい)に、驚ろきの眉(まゆ)をわが額の上にあつめたるアーサーを、わが夫と悟れる時のギニヴィアの眼には、アーサーは少(しば)らく前のアーサーにあらず。
 人を傷(きずつ)けたるわが罪を悔ゆるとき、傷負える人の傷ありと心付かぬ時ほど悔(くい)の甚(はなはだ)しきはあらず。聖徒に向って鞭(むち)を加えたる非の恐しきは、鞭(むちう)てるものの身に跳(は)ね返る罰なきに、自(みずか)らとその非を悔いたればなり。われを疑うアーサーの前に恥ずる心は、疑わぬアーサーの前に、わが罪を心のうちに鳴らすが如く痛からず。ギニヴィアは悚然(しょうぜん)として骨に徹する寒さを知る。
「人の身の上はわが上とこそ思え。人恋わぬ昔は知らず、嫁(とつ)ぎてより幾夜か経たる。赤き袖の主のランスロットを思う事は、御身(おんみ)のわれを思う如くなるべし。贈り物あらば、われも十日を、二十日(はつか)を、帰るを、忘るべきに、罵(のの)しるは卑(いや)し」とアーサーは王妃の方(かた)を見て不審の顔付である。
「美しき少女!」とギニヴィアは三たびエレーンの名を繰り返す。このたびは鋭どき声にあらず。去りとては憐(あわれ)を寄せたりとも見えず。
 アーサーは椅子に倚る身を半ば回(めぐ)らしていう。「御身とわれと始めて逢える昔を知るか。丈(じょう)に余る石の十字を深く地に埋(うず)めたるに、蔦(つた)這(は)いかかる春の頃なり。路(みち)に迷いて御堂(みどう)にしばし憩(いこ)わんと入れば、銀に鏤(ちり)ばむ祭壇の前に、空色の衣(きぬ)を肩より流して、黄金(こがね)の髪に雲を起せるは誰(た)ぞ」
 女はふるえる声にて「ああ」とのみいう。床(ゆか)しからぬにもあらぬ昔の、今は忘るるをのみ心易しと念じたる矢先に、忽然(こつぜん)と容赦もなく描き出されたるを堪えがたく思う。

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