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虞美人草 二(8)
日期:2021-03-10 04:31  点击:329

「母が帰って来たのです」と女は坐(すわ)ったまま、何気なく云う。
「ああ、そうですか」と男も何気なく答える。心を判然(はっき)と外に露(あら)わさぬうちは罪にはならん。取り返しのつく謎(なぞ)は、法庭(ほうてい)の証拠としては薄弱である。何気なく、もてなしている二人は、互に何気のあった事を黙許しながら、何気なく安心している。天下は太平である。何人(なんびと)も後指(うしろゆび)を指(さ)す事は出来ぬ。出来れば向うが悪(わ)るい。天下はあくまでも太平である。
「御母(おっか)さんは、どちらへか行らしったんですか」
「ええ、ちょっと買物に出掛けました」
「だいぶ御邪魔をしました」と立ち懸(か)ける前に居住(いずまい)をちょっと繕(つく)ろい直す。洋袴(ズボン)の襞(ひだ)の崩れるのを気にして、常は出来るだけ楽に坐る男である。いざと云えば、突(つ)っかい棒(ぼう)に、尻を挙げるための、膝頭(ひざがしら)に揃(そろ)えた両手は、雪のようなカフスに甲(こう)まで蔽(おお)われて、くすんだ鼠縞(ねずみじま)の袖の下から、七宝(しっぽう)の夫婦釦(めおとボタン)が、きらりと顔を出している。
「まあ御緩(ごゆっ)くりなさい。母が帰っても別に用事はないんですから」と女は帰った人を迎える気色(けしき)もない。男はもとより尻を上げるのは厭(いや)である。
「しかし」と云いながら、隠袋(かくし)の中を捜(さ)ぐって、太い巻煙草(まきたばこ)を一本取り出した。煙草の煙は大抵のものを紛(まぎ)らす。いわんやこれは金の吸口の着いた埃及産(エジプトさん)である。輪に吹き、山に吹き、雲に吹く濃き色のうちには、立ち掛けた腰を据(す)え直して、クレオパトラと自分の間隔を少しでも詰(つづ)める便(たより)が出来んとも限らぬ。
 薄い煙りの、黒い口髭(くちひげ)を越して、ゆたかに流れ出した時、クレオパトラは果然、
「まあ、御坐り遊ばせ」と叮嚀(ていねい)な命令を下した。
 男は無言のまま再び膝(ひざ)を崩(くず)す。御互に春の日は永い。
「近頃は女ばかりで淋(さむ)しくっていけません」
「甲野君はいつ頃(ごろ)御帰りですか」
「いつ頃帰りますか、ちっとも分りません」

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