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虞美人草 三 (3)
日期:2021-03-22 07:34  点击:425
  「都合か。世の中に都合ほど卑怯(ひきょう)なものはない」
「するとアレキサンダーは大変な卑怯な男になる訳だ」
「アレキサンダーなんか、そんなに豪(えら)いと思ってるのか」
 会話はちょっと切れた。甲野さんは寝返りを打つ。宗近君は箕坐(あぐら)のまま旅行案内をひろげる。雨は斜(なな)めに降る。
 古い京をいやが上に寂(さ)びよと降る糠雨(ぬかあめ)が、赤い腹を空に見せて衝(つ)いと行く乙鳥(つばくら)の背(せ)に応(こた)えるほど繁くなったとき、下京(しもきょう)も上京(かみきょう)もしめやかに濡(ぬ)れて、三十六峰(さんじゅうろっぽう)の翠(みど)りの底に、音は友禅(ゆうぜん)の紅(べに)を溶いて、菜の花に注(そそ)ぐ流のみである。「御前(おまえ)川上、わしゃ川下で……」と芹(せり)を洗う門口(かどぐち)に、眉(まゆ)をかくす手拭(てぬぐい)の重きを脱げば、「大文字(だいもんじ)」が見える。「松虫(まつむし)」も「鈴虫(すずむし)」も幾代(いくよ)の春を苔蒸(こけむ)して、鶯(うぐいす)の鳴くべき藪(やぶ)に、墓ばかりは残っている。鬼の出る羅生門(らしょうもん)に、鬼が来ずなってから、門もいつの代にか取り毀(こぼ)たれた。綱(つな)がぎとった腕の行末(ゆくえ)は誰にも分からぬ。ただ昔しながらの春雨(はるさめ)が降る。寺町では寺に降り、三条では橋に降り、祇園(ぎおん)では桜に降り、金閣寺では松に降る。宿の二階では甲野さんと宗近君に降っている。
 甲野さんは寝ながら日記を記(つ)けだした。横綴(よことじ)の茶の表布(クロース)の少しは汗に汚(よ)ごれた角(かど)を、折るようにあけて、二三枚めくると、一頁(ページ)の三(さん)が一(いち)ほど白い所が出て来た。甲野さんはここから書き始める。鉛筆を執(と)って景気よく、
「一奩(いちれん)楼角雨(ろうかくのあめ)、閑殺(かんさつす)古今人(ここんのひと)」
と書いてしばらく考えている。転結(てんけつ)を添えて絶句にする気と見える。
 旅行案内を放(ほう)り出して宗近君はずしんと畳を威嚇(おどか)して椽側(えんがわ)へ出る。椽側には御誂向(おあつらえむき)に一脚の籐(と)の椅子(いす)が、人待ち顔に、しめっぽく据(す)えてある。連(れんぎょう)の疎(まばら)なる花の間から隣(とな)り家(や)の座敷が見える。障子(しょうじ)は立て切ってある。中(うち)では琴の音(ね)がする。
「忽(たちまち)※(きく)[#「耳+吾」、56-1]弾琴響(だんきんのひびき)、垂楊(すいよう)惹恨(うらみをひいて)新(あらたなり)」
と甲野さんは別行に十字書いたが、気に入らぬと見えて、すぐさま棒を引いた。あとは普通の文章になる。

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