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虞美人草 九 (7)
日期:2021-04-10 23:59  点击:252
 降らんとして降り(そこ)ねた空の奥から(かす)かな春の光りが、淡き雲に(さえ)ぎられながら一面に照り渡る。長閑(のど)かさを抑えつけたる頭の上は、晴るるようで何となく欝陶(うっとう)しい。どこやらで琴の()がする。わが()くべきは(ちり)も払わず、更紗(さらさ)の小包を二つ並べた間に、袋のままで(さび)しく壁に持たれている。いつ欝金(うこん)(おい)()ける事やら。あの曲はだいぶ()れた手に違ない。片々に抑えて片々に(はじ)く爪の、安らかに幾関(いくせき)()を往きつ戻りつして、春を限りと乱るる色は甲斐甲斐(かいがい)しくも豊かである。聞いていると、あの雨をつい昨日(きのう)のように思う。ちらちらに昼の(ほたる)と竹垣に(したた)(れんぎょう)に、朝から降って退屈だと阿父様(とうさま)がおっしゃる。繻子(しゅす)の袖口は手頸(てくび)(すべ)りやすい。絹糸を細長く目に()いたまま、針差の(くれない)をぷつりと刺して立ち上がる。盛り上がる古桐の長い胴に、(あざや)かに眼を()ませと、の字に渡す糸の数々を、幾度か抑えて、幾度か()ねた。曲はたしか小督(こごう)であった。狂う指の、()き昼を、くちゃくちゃに()みこなしたと思う頃、阿父様は御苦労と手ずから御茶を入れて下さった。京は春の、雨の、(こと)の京である。なかでも琴は京によう似合う。琴の(すき)な自分は、やはり静かな京に住むが分である。古い京から抜けて来た身は、(やみ)を破る(からす)の、飛び出して見て、そぞろ黒きに驚ろき、舞い戻らんとする夜はからりと明け離れたようなものである。こんな事なら琴の代りに洋琴(ピアノ)でも習って置けば善かった。英語も昔のままで、今はおおかた忘れている。阿父(とうさま)は女にそんなものは必要がないとおっしゃる。先の世に住み古るしたる人を便りに、小野さんには、追いつく事も出来ぬように後れてしまった。住み古るした人の世はいずれ長い事はあるまい。古るい人に先だたれ、新らしい人に後れれば、今日(きょう)明日(あす)と、その日に(はか)る命は、(あや)()(あやう)い。……
 格子(こうし)ががらりと()く。(いにしえ)の人は帰った。
「今帰ったよ。どうも(ひど)(ほこり)でね」
「風もないのに?」

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