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あばばばば(6)
日期:2021-06-14 23:57  点击:351
 保吉も前後にこの時だけは甚だ殊勝(しゆしよう)に返事をした。
 かう云ふ出来事のあつた後、二月ばかりたつた頃であらう、確か翌年(よくとし)の正月のことである。女は何処へどうしたのか、ぱつたり姿を隠してしまつた。それも三日や五日ではない。いつ買ひ物にはひつて見ても、古いストオヴを据ゑた店には例の眇(すがめ)の主人が一人、退屈さうに坐つてゐるばかりである。保吉はちよいともの足らなさを感じた。又女の見えない理由にいろいろ想像を加へなどもした。が、わざわざ無愛想な主人に「お上(かみ)さんは?」と尋ねる心もちにもならない。又実際主人は勿論あのはにかみ屋の女にも、「何々をくれ給へ」と云ふ外には挨拶さへ交(かは)したことはなかつたのである。
 その内に冬ざれた路の上にも、たまに一日か二日づつ暖い日かげがさすやうになつた。けれども女は顔を見せない。店はやはり主人のまはりに荒涼(くわうりやう)とした空気を漂はせてゐる。保吉はいつか少しづつ女のゐないことを忘れ出した。……
 すると二月の末の或夜、学校の英吉利(イギリス)語講演会をやつと切り上げた保吉は生暖(なまあたたか)い南風(なんぷう)に吹かれながら、格別買ひ物をする気もなしにふとこの店の前を通りかかつた。店には電燈のともつた中に西洋酒の罎や罐詰めなどがきらびやかに並んでゐる。これは勿論不思議ではない。しかしふと気がついて見ると、店の前には女が一人、両手に赤子を抱へたまま、多愛(たわい)もないことをしやべつてゐる。保吉は店から往来へさした、幅の広い電燈の光りに忽ちその若い母の誰であるかを発見した。
「あばばばばばば、ばあ!」
 女は店の前を歩き歩き、面白さうに赤子をあやしてゐる。それが赤子を揺(ゆ)り上げる拍子に偶然保吉と目を合はした。保吉は咄嗟に女の目の逡巡する容子(ようす)を想像した。それから夜目(よめ)にも女の顔の赤くなる容子を想像した。しかし女は澄ましてゐる。目も静かに頬笑んでゐれば、顔も嬌羞(けうしう)などは浮べてゐない。のみならず意外な一瞬間の後、揺り上げた赤子へ目を落すと、人前も羞ぢずに繰り返した。
「あばばばばばば、ばあ!」
 保吉は女を後ろにしながら、我知らずにやにや笑ひ出した。女はもう「あの女」ではない。度胸の好(い)い母の一人である。一たび子の為になつたが最後、古来如何(いか)なる悪事をも犯した、恐ろしい「母」の一人である。この変化は勿論女の為にはあらゆる祝福を与へても好い。しかし娘じみた細君の代りに図々(づうづう)しい母を見出したのは、……保吉は歩みつづけたまま、茫然と家々の空を見上げた。空には南風(みなみかぜ)の渡る中に円(まる)い春の月が一つ、白じろとかすかにかかつてゐる。……
(大正十二年十一月)
 
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