その内の一人は黒い洋服に黒いソフト帽を冠った中年の紳士で、顔はよく見えなかったが、眼鏡や髭はなかった様に思う。その人が女中が出て行って間もなく門内に姿を消した。それから長い時間の後、(乞食の記憶は曖昧であったが、その間は一時間程と推定された)一人の若くて美しい女が門を入って行った。その髪形と着衣とは、非常にハッキリ乞食の印象に残っていたらしく、髪の方は「今時見かけねえ二百三高地でさあ。わしらが若い時分流行ったハイカラさんでさあ」と云った。君は多分知らないだろうが、二百三高地と云うのは、日露戦争の旅順攻撃の記念の様にして起った名称で、前髪に芯を入れて、額の上に大きくふくらました形の、俗に庇髪と云った古風な洋髪のことだ。それから着衣の方は、無論単衣物に違いないのだが、「紫色の矢絣」の絹物で、帯は黒っぽいものであったと答えた。矢絣というのも現代には縁遠い柄で、歌舞伎芝居の腰元の衣裳などを思出させる古風な代物だが、老年の片輪乞食は、この我々には寧ろ難解な語彙をちゃんと心得ていて、さも昔懐しげな様子で、歯のない唇を三日月型にニヤニヤさせながら、少女の様にあどけない声で答弁した。彼はその女が眼鏡をかけていた事も記憶していた。
この二人の人物が姉崎家の門を入った時間は、黒服の中年の男の方は午後一時から一時半頃までの間、矢絣の若い女の方は午後二時から二時半頃までの間と判断すれば大過ない様に考えられた。だが、彼等が門を出て行った時間は、つまり彼等が夫々どれ程の間姉崎家に留まっていたかという事は、残念ながら全く知る由がなかった。乞食はそれを見なかったのだ。二人ともいつ門を出て行ったか少しも気附かなかったというのだ。居眠りをしていたか、躄車を動かしてコンクリート管の蔭へ入っていたか、それとも他のものに気を奪われていた隙に、両人とも門を出て行ったものであろう。
来た人が帰って行くのを見逃がしていた程だから、この両人の外に、乞食の目に触れなかった訪問者がなかったとは云えないし、姉崎家への入口は正門ばかりには限らないことを考えると、殺人犯人がその黒服の男と矢絣の女のどちらかであったと極めてしまうのは無論早計だけれど、姉崎家は主人の死亡以来訪問者も余り多くなかったという事だから、その乏しい訪問者の内の二人が分ったのは、可成の収穫であったと云っていい。
それから捜査の人達は手分けをして、姉崎家の表門裏門への通路に当る小売商店などを、一軒一軒尋ね廻って、胡散な通行者がなかったかを調べたが、別段の手掛りも得られなかった。ただその内の刑事の一人が、電車の停留所から姉崎家の表門への通路に当る一軒の煙草屋で、さい前の躄乞食の証言を裏書きする聞込みを掴んで来た外には。
その煙草屋のおかみさんが云うのには、黒い洋服を着た人は幾人も通ったので、どれがそうであったかは分らぬけれど、矢絣の女の方は、髪の形が余り突飛だったので、よく記憶しているが、二十二三に見える縁なし眼鏡をかけた濃化粧の異様な娘さんで、通りかかったのは二時少し過ぎであった。「新派劇の舞台から飛び出して来たんじゃないかと思いましたよ。妙な娘さんでございますね」と、刑事はおかみさんの声色を混ぜて報告した。そして不思議な一致は、おかみさんも、乞食と同じ様に、その女の帰る所を見ていないことだ。女は来た時とは反対の道を通って帰ったのかも知れない。或は、煙草店の主婦が用事に立っている隙に通り過ぎたのかも知れない。
恶灵(10)
日期:2021-08-19 20:33 点击:289