「ありません。しかし、チュソー夫人のことは本を読んで知ってますよ。僕もあの蝋人形は好きですね。皮膚がすき通って、血が通っているようでしょう」
「そうです、そうです。血が通っています。死体人形なら、脈がとまったようです」
「で、あなたは、蝋人形を造っておられるのですか」
「そうです。今は蝋人形がおもです。医学校や博物館の生理模型ですよ。病気の模型が多いのです。だが、それはただ金儲けのためです。美術とは云えません。わたしは模型人形で暮らしを立てて、一方で美術人形の研究をしているのですよ。大江先生はむろんご承知でしょうが、ホフマンの『砂男』に出て来る美しい娘人形、オリンピア嬢でしたかね。あれがわたしの念願ですよ。おわかりでしょう。世の中の青年たちが真剣に恋をするような人形ですね」
伴天連爺さんは、なかなか物知りであった。ホフマンのナタニエル青年は、生きた娘よりも、人形のオリンピアに命がけの恋をしたのである。
「それでは、ジェローム・ケイ・ジェロームの『ダンス人形』をお読みになったことがありますか」
蘭堂はつい誘いこまれて、西洋小説の話をはじめた。すると爺さんはニコニコして、
「読みましたとも、あれはわたしの一ばん好きな小説の一つですよ。娘たちのダンスの相手として、いつまで踊っても疲れない鉄の男人形を造ってやる人形師の名人の話でしょう。わたしはああいう名人になりたくて、修業したのですよ。あの鉄の人形も、生きて動き出したのですね。一人の娘を抱いたまま、無限に踊りつづけたのですね。実にいい話だ。ああいう小説を読むと、人形師の生き甲斐を感じますよ」
ジェロームの「ダンス人形」は訳が出ていないはずだから、この老人形師は外国語も読めるのであろう。あらためて書棚の古本を眺めると、英語でもフランス語でもドイツ語でもない背文字があった。蘭堂はなんだか気味がわるくなって来た。目の前の皺だらけの小さな老人が、奥底の知れない人物に感じられて来た。
「蝋人形はどうして造るのですか。やはり型にはめるのですか」
「粘土で原型を造ることもありますが、直接実物からとる場合もあるのです」
「実物からとは?」
「食堂のショーウィンドウに並んでいる蝋製の料理見本をごらんになったことがあるでしょう。あれは実物に石膏をぶっかけて、女型をつくることが多いのですよ。そこへ蝋を流しこんで固め、彩色するのです。人間でも同じことです。ただ石膏がたくさんいるだけですよ」
「じゃあ、人間の肌に石膏をぬるのですね」
「そうです。ごらんなさい。ここに見本がありますよ。ホラ、これがわたしの手です。実物と見くらべてごらんなさい」
やっぱり本棚の古本のあいだから、ひらいた人間の手を取り出して、机の上においた。手首のところから切りとった手の平である。老人形師は、自分の手をひらいて、それとならべて机の上にさし出した。小さな皺の一つ一つ、しなびた老人の手の色合が、そのまま出ている。どちらが本物かわからないほどであった。
恶灵物语(3)
日期:2021-08-26 23:57 点击:300