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湖畔亭事件(7)
日期:2021-10-19 23:41  点击:249


 そして、ある日のことでありました。
 毎日欠かさず湯殿に来る娘が、どうしたことか、その日は夜になっても姿を見せないので、見たくもない他の人達の身体を、眺め暮している内に、いつしか夜が()けて、もう浴客も尽き、いつもの例によると、あとは、十二時頃に女中達の入浴するまで、一二時間の間、鏡の表に人影の現れることはないのです。
 私はもうあきらめて、最前(さいぜん)から敷いてあった(とこ)の中にもぐり込みました。すると、今まで気にもとめなかった、一間置いて向うの部屋の、馬鹿騒ぎが、うるさく耳について、とても眠ることが出来ません。田舎芸妓のボロ三味線に、野卑(やひ)な俗曲を、女の甲声(かんごえ)と、男の胴間声(どうまごえ)とが合唱して、そこへ太鼓(たいこ)まで入っているのです。珍しく(おお)一座と見えて廊下を走る女中の足も忙しそうに響いて来ます。
 寝られぬままに、私は又もや床を這い出して、鏡の所へ行きました。そして、ひょっとして、あの娘の姿が見られはしないかと、そんなことを願いながら、ふと鏡の表を見ますと、いつの間に来たのか、そこには一人の女の後姿(うしろすがた)が映っているのです。それが例の娘でないことは一目で分りましたが、しかし、その外の何人(なんぴと)であるかは、少しも分りません。そこには女のくびから下が、鏡の隅によって、ボンヤリと映っているに過ぎないのです。からだの肉つきから判断すると、どちらかといえば若い女の様に見えます。今湯から上って、顔でもふいているらしい恰好です。
 と、突然、女の背中で何かがキラリと光りました。ハッとしてよく見ると、実に驚くべきものが、そこにうごめいているではありませんか。鏡の隅の方から、一本の男のらしい手が延びて、それが短刀を握っているのです。女の丸々とした身体と、その手前に、距離の関係で非常に大きく見える、男の片腕とが鏡面一ぱいに()ちて、それが水族館の水槽の様に、黒ずんで見えるのです。一刹那(いっせつな)、私は(まぼろし)を見ているのではないかと疑いました。事実私の神経は、それ程病的に興奮していたのですから。
 ところが、暫く見ていても、一向幻は消えないのです。それどころか、ギラギラと異様に光る短刀が、少しずつ少しずつ、女の方へ近づいて行くのです。男の手は、多分興奮のためにでしょう、気味悪く震えています。女はそれを知らないのでしょう、じッと(おち)ついて、やッぱり顔を拭いている様です。
 も(はや)夢でも幻でもありません。疑いもなく、今浴場で殺人罪が犯され様としているのです。私は早くそれを止めなければなりません。しかし、鏡の中の影をどうすることが出来ましょう。早く、早く、早く、私の心臓は()れる様に鼓動します。そして、何事かを叫ぼうとしますが、舌がこわばってしまって、声さえ出ないのです。
 ギラリ、一瞬間鏡の表が(いなずま)の様に光ったかと思うと、真っ赤なものが、まるで鏡の表面を伝う様に、タラタラと流れました。
 私は今でも、あの時の不思議な感じを忘れることが出来ません。一方の部屋では、景気づいた俗曲の合唱が、太鼓や手拍子(てびょうし)足拍子で、部屋も()れよと響いています。それと、私の目の前の、闇の中の、ほの白い鏡の表の出来事とが、何とまあ異様な対照をなしていたことでしょう。そこでは、白い女の体が、背中から真っ赤なドロドロしたものを流しながら、スーッとあるき去る様に鏡の表から消えました。いうまでもなく、そこへ倒れたのでしょうけれど、鏡には音がないのです。あとに残った男の手と短刀とは、暫くじっとしていましたが、やがて、これも又、あとじさりをする様に、鏡から影を消してしまいました。その男の手の甲に、(はす)かけに、傷痕(きずあと)らしい黒い(すじ)のあったのが、いつまでも、いつまでも、私の目に残っていました。

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