十六
結局その訊問によって判明したことは、私達があらかじめ知っていた以上のものではありませんでした。のみならず、例の覗き眼鏡のことを打開けないものですから、彼等は或意味ではこの事件について、私達よりも一層無智であるといわねばなりません。例えば兇行の時間でも、私達には十時三十五分頃と、可なり正確に分っているに反して、彼等は、女中が長吉や松永の不審な挙動を見た時間から、兇行も多分その頃行われたものであろうと推定しているに過ぎないのです。
そこで、兎も角も嫌疑者松永の行方捜索が行われることになりました。正確にいえば、この時はまだ、果して殺人罪が行われたかどうかさえ確められていた訳ではありません。脱衣場の血痕と、長吉の所在不明、松永の怪しむべき出立などの符合から、僅にそれを想像せしめる程度に過ぎませんでした。しかし、この場合、誰が考えても松永の行方捜索が先決問題であるのはいうまでもないことです。
幸、河野が村の巡査と知り合になっていたものですから、私達は後に至って、その筋の意見や、捜索の実際をある程度まで洩れなく聞くことが出来ましたが、一応湖畔亭の取調べが済むと、時を移さず行われた松永の行方捜索は、結局何の得る所もないのでした。それは主として、私と宿の番頭とが申立てた、彼等の出立当時の風体に基づいて、街道筋の町々村々を尋ね廻った訳ですが、不思議なことには「洋服姿で、トランクを手にした者」という条件に当てはまる人物は、絶えて姿を見せないのでした。といって、その外の目印は、松永が肥え太った男で、鼻下に髭を貯えているという位のものですから、もし彼等が、トランクをどこかへ隠して、巧に変装をしてしまえば、人目にかからず逃げおおせることは、あながち不可能でもありません。
彼等の逃走の最大の邪魔物は、いうまでもなくあの目立ち易いトランクです。彼等は必ず、それを途中で人知れず処分したのに相違ありません。警察でもその点に気づいて、これもまた出来る限りは探索したのですが、やっぱり思わしい結果は得られませんでした。
それから数日の間というもの、村人を雇って、附近の山々は、申すに及ばず、湖水の底までも、殆ど遺憾なきまでに捜索されましたが(湖水の岸に近い部分は割合に水深も浅く、それに水が綺麗ですから、船を浮べて覗き廻りさえすれば、その底にあるものは手に取る様に見えるのです)依然として何の得る所もありません。かくして、事件は遂に未解決のまま終るのではないかとさえ思われました。
しかし、以上は表面上の事実に過ぎないので、その裏面には更に一層不可解な事柄が起っていたのでした。
お話は元に戻って、事件の翌日、湖畔亭の取調べのあった、その夜のことになりますが、たとえ一時発覚を免れたとはいえ、私はどうにも覗き眼鏡のことが気になって仕様がないものですから、夜の内にその装置を取り毀してしまうつもりで、いらいらしながら人々の寝鎮まるのを待っていました。
警察の人々が浴場の周囲を取調べた時、私はどんなにヒヤヒヤさせられた事でありましょう。樹木のために蔽われていても、屋根の下へ入って見上げさえすれば、その鼠色の筒は、必ず疑いを惹いたに相違ないのです。ところが私にとって幸であったことには、刑事達は何かが落ちていないか、足跡でもついてはいないかと、地面ばかり見廻って、上の方には一向注意を払わなかったものですから、この不思議な装置は、危く発覚を免れることが出来た訳でした。
しかし、明日にもなれば、又一層綿密な調査が行われることでしょうし、いついつまでも、このままに済むはずはありません。どうしても今夜の中に取外さなければ、安心することは出来ないのです。
その夜は事件のために、家の中が何となく騒がしく、常の日よりも余程おそくまで、話し声が絶えませんでしたが、でも、十二時を過ぎた時分には、やっと人々も寝鎮まった様子でありました。私はそれでも、用心に如くはないと思い、殆ど一時近くまで、じっと待っていました。その間にも、私はたびたび覗き眼鏡の鏡を見て、脱衣場の人影を気にしていたのですが、さて、いよいよこれから窓の外へ忍び出て、秘密の仕事に取りかかるという時に、何気なく、もう一度そこを覗きますと、一刹那ではありましたけれど、ふと恐ろしいものが鏡の底に蠢いているのを発見しました。
それは昨夜見たのと寸分違わない、男の手先の大映しになったものでした。手の甲にはやっぱり同じ様な傷痕らしいものが見え、太くたくましき指の恰好から、全体の調子が、昨夜の印象と少しも違わないのです。
それがチラリと見えたかと見ると、ハッと思う間に消え去ってしまいました。決して夢でも幻でもありません。私は事の意外さ、且は恐しさに、最早何の影もない鏡の表を見つめたまま、暫くはその場を動くことも出来ませんでした。