天にのぼる白犬
ところが、井上君のおじさんの考えは、まちがっていたことが、だんだんわかってきました。雲の中からあらわれる巨人の腕は、けっして、でたらめなうわさではなかったのです。そして、ついに、少年探偵団員である井上君とノロちゃんとが、そのおそろしいできごとを、まのあたりに見ることになるのです。
温泉についたあくる日の夕がた、三人の少年は、また野天ぶろにはいっていました。どんよりとくもった日で、まだ五時をすぎたばかりなのに、あたりは夕やみにとざされ、遠くの方は見えないほど、暗くなっていました。
はじめは三人きりで湯につかっていたのですが、しばらくすると、野天ぶろの岩のむこうから、ひとりのおとなの人がはいってきました。四十五―六に見える、よく太った、りっぱな人です。トキワ館にとまっている東京の客のようでした。
その人は、きものをぬいで湯にはいると、ひとりでジャブジャブやっていましたが、三人の少年の方を見てニッコリ笑うと、なつかしそうに話しかけてきました。
「きみたち、東京からきているんだね。わたしも東京だよ。この温泉は、しずかでいいね。きみたち、いつまでいるの。」
「四―五日いるつもりです。」
小林君が、こたえました。
「それじゃ、山のぼりをするといいんだが……しかし、用心したほうがいいよ。なんだか、へんなうわさがあるからね。」
その人は、みょうな顔をして、三人の少年を、じろじろ見くらべながらいうのでした。
「へんなうわさって?」
小林君は、たぶんあのことだろうと思いましたが、知らぬふりでたずねてみました。
「雲の中から、巨人の腕が出てくるんだ。まだ人間はやられないが、動物は、ずいぶんやられているらしい。その大きな腕で、牛でもなんでも、つかんでいくんだって。」
「それ、ほんとうでしょうか。いなかの人は、迷信ぶかいから、つまらないことから、そんなうわさがひろがっているんじゃないでしょうか。」
井上君がいいますと、その人は、しばらくだまっていましたが、なにか、おそろしそうに、まっ黒にくもった空を見あげました。もう、あたりはいよいよ暗くなって、湯につかっている、おたがいの顔も、ぼんやりとしか見わけられないほどです。
「わたしも、さいしょは、そう思った。しかし、鳥小屋がこわされて、ニワトリが、いなくなった家が、なんげんもあるんだし、牛が、高いところからおとされでもしたように、足をおって、死んでしまったこともあるし、畑の土が、たたみ一畳じきもあるような大きな手で、えぐりとられているところが、二つも三つもある。わたしは、それを、この目で見た。じつにおそろしいことだ。」
そういって、その人は、また暗い空を、じっと見あげるのでした。
「もう出ようよ。そして、部屋へ帰ろうよ。ぼく、なんだか、寒くなってきた。」
ノロちゃんが、暗くなったあたりを見まわして、泣きだしそうな声を出しました。
「うん、早く、部屋へ、はいったほうがいい。巨人の腕があらわれるのは、いつも夜だからね。夜は、外へ出ないほうがいいよ。」
そこで少年たちは、野天ぶろからあがって、岩の間でからだをふいて、服をきましたが、男の人は、お湯のまん中に立ったまま、さっきから、ずっとむこうの方の空を見つめていました。まるで、くいいるように、その方ばかりを見つめているのです。
少年たちは、それに気がつくと、なんだかゾーッとして、思わず自分たちも、その方角を見ました。
「ごらん。あれを、ごらん。」
男の人が、手をあげて、空の一方を指さしました。まるで、ないしょ話でもするような、ひくい声です。
空は、いちめんに、どす黒い雲に、おおわれていました。
「あの山と山との間だよ。」
その山の雲とのさかいめが、もう、見わけられないほど暗くなっているのです。
しかし、山と山との間らしく見えるところに、雲の中から、ボーッと、白っぽいもやのようなものがたれさがっていました。
「あれね、わかるだろう。なんだか大きな腕のように、見えるじゃないか。」
少年たちは、そのもやもやしたものを、見つめました。そういわれれば、いかにも、巨人の腕のような形です。そのでっかい腕が、雲の中から、だんだん地上へのびてくるように、思われるのです。
「ワーッ……。」
ギョッとするようなさけび声がおこりました。そして、井上君の腕を、グッと、つかんだものがあります。びっくりしてふりむくと、それは、ノロちゃんでした。ノロちゃんが、悲鳴をあげて、逃げだそうとしているのです。
そのとき、ノロちゃんと井上君とは、もう服をきていたので、すぐに逃げられるのです。小林君は、まだパンツをはいたばかりのところでした。
ノロちゃんが、むちゅうになって引っぱるものですから、井上君も走りだしました。
野天ぶろから旅館の建物までは、七―八十メートルもあります。しかも、そこは、両がわに大きな木が立ちならんだ、森のような道ですから、もうまっ暗で、足もとも見えないほどです。
ノロちゃんと井上君は、手をひいて、その暗やみの中をいそぐのでしたが、半分ほどいったときに、先にたっていたノロちゃんが、ギョッとしたように立ちすくんでしまいました。そして、ぶるぶるふるえているのが、井上君の手に、つたわってくるのです。
ノロちゃんは、なにを見て、そんなに、こわがっているのでしょう。ノロちゃんには、ものをいう力もないように見えました。井上君のほうでも、聞くのが、おそろしかったのです。
やがて、そのものが、井上君の目にも見えてきました。ボーッと白っぽい、大きなものです。それがスーッと、こちらへ近づいてくるのです。
ノロちゃんが、パッと、井上君のからだにしがみついていきました。
「なあんだ、犬だよ。大きな白犬だよ。」
五メートルほど近づいてきたので、やっとそれがわかりました。昼間、トキワ館の表で見た、大きな白い犬でした。
ノロちゃんは、犬とわかると、すっかり安心して、井上君からはなれ、てれかくしのように、えへ、えへ、と笑いだしました。
「ねえ、井上君、今のこと、小林さんにはないしょだよ。ぼくがふるえあがって、きみにだきついたなんて、いっちゃいやだよ。いいかい。」
ノロちゃんのことばが、おわるかおわらないかでした。とつぜん、すぐ目の前に、身の毛もよだつような、おそろしいことがおこったのです。
その大きな白犬が、キャンキャンと、まるで猛獣にでも出あったような、悲鳴をあげました。そして、身をもがいて、逃げだそうとするのですが、なにかにつかまれてでもいるように、逃げることができないのです。
とっさに、ノロちゃんが、井上君の大きなからだにしがみついたことは、いうまでもありません。ノロちゃんが、がたがたふるえているので、井上君まで、ふるえだすほどでした。
そのうちに、もっとびっくりするようなことがおこりました。
白犬が、地上をはなれて、スーッと、宙にうきあがったのです。巨大な腕につかまれて、上の方へ引きあげられているように見えるのです。
「巨人の腕だ、巨人の腕だ……。」
ノロちゃんは、その方を見まいとして、顔を井上君の胸にくっつけて、ないしょ話のような低い声で、それを、くりかえしていました。
「巨人の腕だ、巨人の腕だ……。」
井上少年は、けっして、おくびょうではありませんが、すぐ目の前に、りくつでは考えられないことが、おこっているのですから、心のそこから、ゾーッとしないではいられませんでした。
さすがの井上君も、もう、逃げだす力もないのです。そのうえ、ノロちゃんにしがみつかれ、熱病のうわごとのように「巨人の腕だ、巨人の腕だ。」とささやかれるのですから、たまったものではありません。
井上君の目は、見まいとしても、その方に、くぎづけになっていました。
大きな白犬は、キャンキャンと、かなしいさけび声をたてながら、もがきにもがいているのです。そして、じりり、じりりと、上の方へ、引きあげられていくのです。
巨人の腕は、はっきりとは見えません。まっ白な犬ですから、犬だけがよく見えて、巨人の腕は、暗やみにとけこんで、ボーッとかすんでいるのです。
見つめていますと、やみの中に、やみとおなじような色の、なんだか、おそろしく巨大なものが、空の方から、グーッと、のびているように感じられます。
その黒い腕が、犬をつかんで、ぐいぐいと、引きあげていくのです。
死にものぐるいに、もがいている白犬の姿は、みるみる井上君の頭よりも高くなり、それからまだ、上へ、上へと、無限に、のぼっていきます。そして、ついには、その姿が見えなくなってしまいました。
ただ、はるか空のほうから、かなしげな白犬のなき声が、かすかに、かすかに、聞こえてくるばかりです。
井上君も、そのからだにしがみついているノロちゃんも、銅像にでもなったように、身動きもしませんでした。ちょうど、腰がぬけたのとおなじで、筋肉が、こわばってしまって、動こうとしても、動けないのです。
「おやっ、井上君とノロちゃんじゃないか。こんなところで、なにをしているんだい。」
とつぜん、うしろから声をかけられたので、ふたりは、とびあがるほどおどろきました。しかし、それでやっと、からだが動くようになったのです。
声をかけたのは、小林団長でした。
暗やみをすかして、その姿を見とどけると、ふたりは、いきなり小林君にかけよって、左右から、その手にとりすがりました。そして、ものもいわないで、旅館の建物の方へ走りだすのです。
「おい、きみたち、なにをそんなに、あわてているんだい。むやみに引っぱっちゃあ、あぶないじゃないか。」
小林君は、引っぱられるままに、走りながら、ふしぎそうに、たずねるのですが、ふたりとも、ひとこともこたえません。なにか、おそろしいものに、追っかけられてでもいるように、ただ、いそぎに、いそぐのです。
やっと、むこうに、トキワ館の部屋の、あかりが見えてきました。
「おい、どうしたんだよ。早く、わけをいいなよ。」
小林君が、しかるようにいって、グッと、ふみとどまったものですから、ふたりも、しかたなくたちどまりました。
「ああ、こわかった。ぼくは、今にも、巨人の腕につかまれるかと思うと、死にそうだったよ。」
ノロちゃんは、あかるくなったので、にわかに元気づいて、口がきけるようになりました。
「えっ、巨人の腕だって。」
小林君も、びっくりして聞きかえしました。
そこでふたりは、あかるい旅館の入口の方へ歩きながら、さっきのおそろしいできごとを、口々に、小林君に話して聞かせるのでした。