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影男-善神恶神(1)
日期:2022-02-13 23:47  点击:323

善神悪神


 数日後、速水(はやみ)荘吉、あるいは綿貫(わたぬき)清二、あるいは鮎沢(あゆさわ)賢一郎、あるいは殿村啓介(けいすけ)、あるいは宮野緑郎、あるいは佐川春泥(しゅんでい)、その他無数の名を持つ影男は、帝国ホテルの一室におさまっていた。
 ここでは、かれは大阪の貿易商社の若い社長鮎沢賢一郎であった。ゆうべおそく大阪から着くと、かれのへやときまっている二間つづきの一室にはいったが、ぐっすり朝ねぼうをして、翌日の昼ごろ起き出して、ゆっくりバスにはいってから、気に入りのボーイに軽い朝食を自室へ持ってこさせ、それを平らげると、あらかじめ呼んでおいたひとりの客を引見した。かれはここでは、呼びよせた客以外には、だれにも会わないことにしていた。
 それは二十三、四歳のはでな洋装の美しい女であった。自室の居間のほうに通して、まず長い接吻(せっぷん)をしてから、長イスにからだをくっつけて腰かけた。
「上流婦人の秘密結社があるのよ。あなたの趣味にぴったりだし、十万円ぐらいのごほうびの値うちありそうよ」
 女の鼻はかわいらしくツンと上向いていた。笑うと左のほおに片えくぼができた。目が愛らしかった。シガレットを気どった手つきでふかしていた。
「詳しく話してごらん」
 影男の鮎沢は、女のえくぼを見ながら、微笑してたずねた。
「首領――といっちゃおかしいけれど、その婦人団の団長みたいな人ね、それはもと侯爵夫人で、たいそうお金持ちなの。春木夫人っていうのよ。団員は十五、六人らしいわ。みんなお金持ちの猟奇マダムよ。はじめは競馬の仲間だったらしいのね。それがマージャンやトランプのパーティーをひらいているうちに、だんだん秘密の楽しみにふけりだしたわけよ。いまではほんものの秘密結社だわ。みんな黒いガウンを着て、黒い覆面ずきんをかぶって、そのために借り入れてある秘密の家で密会するのよ。そして、悪事をたくらむのだわ」
「たとえば?」
「不倫のエロ遊びよ。ずいぶん思いきったことをやっているらしいわ」
「それじゃきみは会員じゃないんだね」
「どういたしまして。地位と財産がなくっちゃあ、その結社にははいれないのよ。それでね、十万円の値うちっていうのは、その会合の場所と時間だわ。どう? 買ってくれる?」
 鮎沢は無言でポケットから小切手帳をとり出し、十万円の金額を書きこんで捺印(なついん)した。それを相手に手渡しながら、
「で、その場所と時間」
「代々木の原っぱの中の一軒家。広い地下室があるんですって。団員はガウンの上にオーバーを着ていって、門の前でオーバーをぬぎ、覆面をかぶるのよ。そして、門に番をしている人にサインをすると、入れてくれるんです。サインはこうよ」
 女は真言秘密の呪文(じゅもん)のような手つきをしてみせた。そして、代々木の密会所の位置を詳しく説明した。
「どう? よく探ったでしょう。その会合が、あすの晩十時から開かれるのよ」
「うん。それで、きみに教えてくれたのは、団員のひとりなんだろう」
「教えてくれたんじゃない。あたしのほうで、鮎沢さん直伝の手でもって、吐かしたんだわ。相手は、あたしなら危険はないと思って、安心しているのよ。でも、けっして他言しちゃいけないって、青い顔になって、念をおしていた。よほどこわい制裁があるんだわ」
「その人の名」
琴平咲子(ことひらさきこ)。新興実業家の奥さまよ。まだ三十になっていない美しい人よ」
 えくぼを深めてニヤリと笑った。
「背は高いかい?」
「あたしより五センチぐらい。でも、鮎沢さんよりはずっと低いわ」
「そのくらいならなんとかなる。背を低くしたり高くしたりするのも一つの忍術だからね。もうわかっているだろう。ぼくがその女に化けるのだ。そのあいだ、咲子さんのおもりはきみの役目だ。でなきゃ十万円の値うちはないよ。で、ぼくと咲子さんと会うのは、このホテルのグリルということにしよう。わかったね」

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