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影男-女体山脉
日期:2022-02-16 17:47  点击:328

女体山脈


 どれほどの時間がたったのか、ふと気がつくと、そこはもう海の底ではなくて、かれはまったく別の次元にはいっていた。そこに別の宇宙があった。
 見渡すかぎりの不思議な山であった。かれの理性はそれを否定したけれども、眼前の事実をどうすることもできなかった。麻酔の夢ではなくて、現実に山ばかりの世界がそこにあった。かれはそこが東京都内の地下であることを記憶していた。その地下に、見渡すかぎり果てしもない大洋があった。そして、今はまた、その地下に、見渡すかぎり山また山がつづいていた。夢ではない。かれは明らかに目ざめていた。夢でないとすれば、人知を絶した魔法である。さきほどの五十万円は、地底の魔術の国への入場料であった。
 かれはやっぱりビロードのシャツを着ていた。それはもうぬれてはいなかったし、透明マスクもボンベも、いつのまにか取り去られていた。そして、何かしら柔らかいものの上に寝そべって、果て知らぬ山のけしきをながめていた。
 その山容は、この世のものではなかった。青い木は一本もはえていなかった。ただのはげ山でもなかった。ごちゃごちゃとした目まぐるしい陰影があり、全体におしろいでも塗ったような、不思議な山であった。そのけしきからは、むせ返るような脂粉の香が立ちのぼっていた。そして、もっと不思議なことには、全山が絶えまなく、うようよとうごめいているかに感じられた。
 目の前は急な山すそになっていて、その底にかれは寝そべっていた。遠くの山容から、前の山すそに目を移すと、その山には無数の目と、無数のくちびると、無数の手と足とがあることがわかってきた。かすりのように点々として黒いものが見えるのは、女たちの髪の毛であった。顔の上に太ももが重なり、腕と腕とがもつれ、なめらかなかっこうのよいおしりが、無数に露出していた。それは幾千幾万とも知れぬ裸女を積み重ねた人肉の山であった。死体の山ではなかった。それは皆生きていた。生きて積み重なっていた。
 影男は、やっとそれを気づいたとき、自然に口がぽかんと開いてしまった。そして、大きな口をあけたまま、痴呆(ちほう)のように、この圧倒的な人外境の風景に見とれていた。
 かれが寝そべっていた柔らかい谷底が、やはり女体によって構成されていることがわかった。それは揺籃(ようらん)のようにかすかにうごめいていた。暖かくて、脂粉の香に満ちていた。そこにも無数のにこやかな美しい顔が横たわっていた。地面全体が、花のような顔と、すべっこい桃色のからだとで、かれのほうに笑いかけていた。
 すぐ前の女体は大きく、顔もはっきりわかったが、山すそからかれの目が上のほうへ移るにしたがって、顔は小さく見わけられなくなって、はては一面に白っぽい女体のつらなりの中へ溶けこんでいた。それが、はるかかなたの空にかすむ山頂まで無限につづいている光景は、言語に絶する壮観であり、むしろ神々(こうごう)しくさえあった。この世の裏を見つくした影男にも、東京の地下にこれほどの驚異が隠されていようとは、思いも及ばぬことであった。
 地下に無限の大洋を広げ、地下に無限の山脈をつらね、その山脈を女体によって築くとは! その女体の数は、幾千幾万を数えてもまだ足りぬことであろうが、いったいこれほどの女を、どこから狩り集めたのであろう。それらの地下の構成のすべては、古来のいかなる王侯の富をもってしても、遠く及ばぬところではないだろうか。今の世にありえないことだ。しかも、夢ではない。どんな魔法でも、これほどの驚異を生み出すことはできない。
 かれはむせかえる女体とにおいに包まれ、うごめく豊満な肢体(したい)に接し、人肉の大海に漂うただひとりの男性であった。かれはぴったり身についた黒ビロードのバレリーナの軽快な姿で女体の上に立ちあがり、女体のスロープを山頂に向かってのぼりはじめた。
 足の下には、すべっこく柔らかい無数の曲面が連なっていた。乳ぶさがふるえ、おしりがゆがみ、もものあいだにあやうく足がすべり、美しいほおや鼻さえも踏みつけたが、女体どもは痛さをこらえて沈黙していた。叫び声をたてるものはひとりもなかった。
 女体の数にして五、六人も登ったとき、予期せぬ異変が起こった。二つの女体が、ちょっと身動きしたかと思うと、そのあいだに細いみぞができ、かれの両足がそのみぞの中にはまった。それと同時に、その辺一体の女体がぐらぐらとゆれて、みぞはいよいよ大きく口をひらき、アッと思うまに、かれのからだは人肉の底なし沼に没していった。
 女体の下に女体が、幾層にも重なり合っていた。下敷きの女体の苦しさが思いやられた。その女体のうずの暗い裂けめへ、影男の全身が徐々に沈んでいくのだ。前後、左右、上下のあらゆる面に、すべっこくて柔らかい曲面が連なっていた。男の黒ビロードのからだは、それらの曲面におしつぶされながら、底知れぬ深みへと吸いこまれていった。女体の熱気と、脂粉と、芳香と、甘い触感の底へ、深く深く吸いこまれていった。
 そのとき、全山をゆるがして、おそろしいどよめきが起こった。幾千幾万の女体が、声をそろえて、なまめかしく笑いだしたのだ。赤いくちびるの嬌笑(きょうしょう)が大合唱となって、峰から峰へとこだまし、全世界が途方もない笑いのうず巻きに包まれていった。

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