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犬神家族-第一章 絶世の美人(4)
日期:2022-05-31 23:58  点击:328
寝室の蝮に自動車の故障、それに今日のボートの穴と、それらがみんな珠世のいうよう
に、偶然のまわり合わせであったろうか。そこには|何《なん》|人《ぴと》かの意志が
働いているのではあるまいか。何人かの意志が働いているとすると、とりも直さずそのひ
とは、珠世の命をねらっているのだ。そして、ひょっとするとそのことと若林豊一郎のあ
の無気味な予感とのあいだに、なにか関係があるのではあるまいか。そうだ、若林という
男にきいてみよう。若林豊一郎はもうそろそろ宿へやってくる時分である。金田一耕助は、
力をこめてボートを漕ぎ出した。
宿へかえると、果たして若林豊一郎がきていた。
「あの……お客様がお見えになりましたので、お座敷のほうへ御案内しておきました
が……」
と、いう女中の言葉に、耕助は急いで二階へあがってみたが、客の姿はどこにも見えな
い。しかし、客の来ていることはたしかなのである。灰皿には|煙草《た ば こ》の吸い
がらがくゆっているし、座敷のすみには、見おぼえのない帽子がぬぎ捨ててある。
おおかた便所へでも行ったのであろう。……そう思って耕助は籐椅子に腰をおろしてい
たが、いくら待っても客の姿は現われなかった。たまりかねて耕助はベルを押して女中を
呼んだ。
「きみ、客はどうしたんだい。見えないじゃないか」
「あら、お見えになりません? まあ、どうなすったんでしょう。手洗いじゃありません
かしら」
「手洗いにしても長過ぎるよ。部屋でもまちがえたんじゃあないか。きみ、ひとつ探して
くれたまえ」
「変ですねえ。どこへいらしたんでしょう」
女中は妙な顔をして出ていったが、それから間もなく、キャッというような悲鳴がきこ
えてきた。たしかに女中の声である。
耕助が驚いて、声のするほうへ駆けつけると、洗面所のまえでさっきの女中が、|真《ま》
っ|青《さお》になって立ちすくんでいる。
「き、きみ、ど、どうしたんだ」
「あ、旦那様、……お客様が……お客様が……」
女中の指さすほうをみると、洗面所のド?が少しひらいて、そこから見えるのは横に倒
れた男の脚。耕助はドキッと息をのむと、ド?をあけて洗面所のなかへ踏みこんだが、そ
れきり棒をのんだように立ちすくんでしまったのである。
洗面所の白タ?ルの床の上に、黒眼鏡をかけた男が、うつぶせになって倒れている。倒
れるまえによほどもがいたと見えて、オーバーの|襟《えり》やマフラが乱れ、床をつか
んだ両手の指は、|爪《つめ》もくいいらんばかりに節くれ立っている。しかも白いタ?
ルのうえには、男の吐いたらしい血が点々としてこぼれているのである。
耕助はしばらく凝結したように立ちすくんでいたが、やがてそっとちかよると、男の腕
をとってみた。むろん、脈はもうなかった。
耕助は男のかけた黒眼鏡をはずし、それから女中をふりかえった。
「きみ、きみ、きみはこのひとに見覚えはない?」
女中はこわごわ男の顔をのぞきこんだが、
「あら、若林さんだわ!」
その一言に耕助の心臓はギョクンとおどった。
ふたたびかれは|茫《ぼう》|然《ぜん》として、立ちすくんでしまったのである。
古館弁護士
金田一耕助にとって、これほど大きな侮辱はなかった。
私立探偵と依頼人との関係は、|懺《ざん》|悔《げ》|僧《そう》と懺悔人との関係
も同じことである、と金田一耕助は日ごろから考えている。
罪深い懺悔人が、いっさいの秘密を打ち明けて、懺悔僧に取りすがるように、事件の依
頼人も、余人にはもらさぬことを打ち明けて、私立探偵の力にすがろうとする。それには
よくよく相手の人格を信頼したうえでのことであろうし、それだけに、依頼された身にな
ってみれば、依頼人の信頼にこたえなければならぬ。
金田一耕助はいままでその方針でやってきたし、そしてまたいままで一度も、依頼人の
信頼を裏切ったことはないという自負も持っていた。
ところがどうだろう。こんどの事件の場合は、依頼人は自分の面前へ現われるやいなや
殺されてしまったのだ。しかも、自分の部屋で……耕助にとって、これほど大きな屈辱が
あるだろうか。
さらにまた、これを逆に考えると、若林豊一郎を殺した人物は、若林が秘密の一端を金
田一耕助なる探偵に打ち明けることを知っていて、これを防ぐ目的で、こういう残忍な所
業をあえてしたのにちがいない。と、いうことはこの事件の犯人は、すでに金田一耕助の
存在を知っており、かれに挑戦してきたことになるではないか。
そう考えると耕助は、心中に怒りがもえあがり、また同時に、猛然とフ??トがたぎり
立つのであった。
まえにもいったとおり耕助は、最初、この事件に対して半信半疑の気持ちであった。若
林豊一郎のおそれているようなことが、果たして起こるかどうか疑問だと考えていた。し
かし、それらの疑問は、いまや一挙にして解消したのだ。この事件は、若林豊一郎の手紙
にあるよりも、もっともっと深い根底を持っているのだ。……
それはさておき、金田一耕助は最初かなり変な立場に立たされた。金田一耕助はシャー
ロック.ホームズではない。名声それほど天下にとどろいているというわけでもないので、
知らせをきいて駆けつけてきた、那須署の署長や係官に対して、自分の立場を説明するの
に、かなり困難を感じなければならなかった。
それにまた、若林豊一郎のあの手紙を、いまただちに公表することは、なんとなくはば
かられるのである。それだけに、自分が那須市へやってきた目的をハッキリ相手に納得さ
せるのに、|躊躇《ちゅうちょ》が感じられたのだ。
果たして係官たちは、耕助に対してなんとなく釈然としないものを抱いたようだ。耕助
は若林豊一郎との関係を根掘り葉掘り尋ねられた。そしてようやくある種の調査を依頼さ
れてやってきたのだが、その調査というのが、どういうものであるか、相手が死んでしま
ったいまとなってはわからないというようなことでお茶をにごした。
係官はできるだけ遠回しな言いかたであったが、当分当地にとどまっているようにと、
耕助にむかって要請したが、耕助もそれについては異議はなかった。かれ自身、この事件
の決着がつくまでは、絶対に那須市を去るまいと固く心にきめていたのだ。
それはさておき若林豊一郎の死体はその日のうちに解剖されて、死因もどうやら確認し
たが、それによるとやっぱりかれは、ある毒物によって殺されたのである。ところで、そ
の毒物だが妙なことには胃の|腑《ふ》からは検出されずに肺臓から発見されたのである。
つまり、若林豊一郎は毒をのんだのではなく、吸ったのである。
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