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犬神家族-第四章 捨て小舟(1)
日期:2022-05-31 23:59  点击:255
第四章 捨て小舟
さっきから吹きはじめた風は、いよいよ嵐の|相《そう》|貌《ぼう》をあらわして、
湖水の上を、真っ黒な風と雨とがものに狂ったようにたたきつけている。
山国の嵐には、一種特有な無気味さがある。雲がひくく垂れさがって、それだけでも、
ひとを威圧する感じだのに、湖水のざわめきが、また尋常ではなかった。どすぐろく濁っ
た水が、波立ち、泡立ち、もみあうところは海とはまたちがったものすごさである。もし
ひとが、嵐の湖水をのぞいたら、そこに女の黒髪のようにもつれあい、からみあい、ひし
めきあっている|藻《も》|草《ぐさ》の巨大な群落を発見してその異様な無気味さに|
慄《りつ》|然《ぜん》とせずにはいられないだろう。何鳥か一羽、嵐に吹かれて矢のよ
うに、くらい湖水の上を、斜めにつっきっていく。まるでなにかの魂のように。――
さて、こういう嵐に取りかこまれた、犬神家の奥座敷には、いま息づまるような緊張の
気がみなぎっている。例の十二畳の座敷である。
佐兵衛翁の写真のまえに集まった、犬神家の一族のあいだには、そのとき、外の嵐にも
おとらない、はげしい内心の|葛《かっ》|藤《とう》が無気味な静けさを保ちつつ、し
のぎを削っているのである。
正面には仮面の佐清と松子夫人、そのまえには例の巻き物と、それから別に、一枚の白
紙と朱墨の硯と一本の筆。
殺された佐武のおふくろの竹子夫人は、眼を真っ赤に泣きはらし、気落ちしたように元
気がなかったが、それでもときおり、松子夫人に投げる視線には、ただならぬ殺気がこも
っていた。佐智はおびえたような眼の色をして、しきりに|爪《つめ》をかんでいる。
金田一耕助は、順繰りに一族のひとびとの顔を見ていたが、かれがいちばん興味をもっ
て見守ったのは、珠世の顔色である。しかし、さすがの耕助にも、そのときの珠世の気持
ちだけはわからなかった。
彼女は、ただ青ざめて、冷たく美しい。珠世はみずから佐清の指紋をとったくらいだか
ら、この仮面の人物に対してふかい疑いを抱いているはずである。その佐清が、みずから
進んで手型をおそうといい出したのだから内心動揺しているにちがいない。それにもかか
わらず、珠世はただ冷然と、美しいばかりである。
そこへ、ひと眼で警察のものと知れる人物が入ってきて、一同に目礼すると、署長のと
なりへ来て座った。橘署長がよびよせた鑑識課のもので、名前を藤崎という。
「では……」
署長がうながすようにつぶやくと、松子夫人はうなずいて、
「それでは、これから、佐清に手型をおさせることにいたしましょう。しかし、そのまえ
に、ちょっと皆さんに聞いていただきたいことがございまして……」
松子夫人はかるく空咳をすると、
「署長さんも、たぶんお聞きおよびでございましょうが、実は昨夜もこの座敷で、これと
同じような場面がございました。佐武さんと佐智さんが詰めよって、無理無体に、佐清に
手型をおさせようとしたのでございます。わたくし、そのとき、キッパリとそれをお断わ
りしました。なぜ、お断わりしたかといいますと、それはおふたりの態度が、あまり無礼
だったからでございます。はじめから、この佐清を罪人扱いにして……、それがくやしか
ったものですから、こんりんざい佐清に手型をおさせるような、不見識なまねはいたすま
いと思っていたのでございます。しかし、いまはもう、事態がすっかり変わってまいりま
した。佐武さんが、あのような恐ろしいことになって、しかも……」
と、松子夫人はそこで毒々しい視線を、妹の竹子のほうに投げると、
「それがまるで、わたしと佐清の仕業のように、このひとたちは思いこんでいるのでござ
います。いいえ、口に出していわなくとも、顔色を見ればよくわかります。しかしよくよ
く考えてみれば、それも無理ではないかもしれません。わたしどものほうにもたしかに落
ち度がございました。昨夜、あんなに頑強に手型をおすのをこばんだこと――そのために、
なにかしら、佐清にうしろぐらいところがありはしないか。そして、そのために、佐武さ
んを殺したのではないか。……そんなふうに疑われたとしたら、これはたしかにわたくし
どもの落ち度でございました。そのことをわたくし、今朝から反省しはじめました。これ
は、いつまでも、意地を張っている場合ではない。……と、そんなふうに考えたものです
から、署長さんにもお立ち会いを願って、皆さんの眼のまえで、佐清に手型をおさせよう
と思い立ったのでございます。皆さん、これでわたくしの気持ちは、よくおわかりくだす
ったでしょうね」
松子夫人の長広舌はそこで終わった。夫人はそこで一同の顔を見回したが、だれも声に
出して、それに返事をするものはなかった。橘署長がうなずいたきりである。
「では、佐清……」
仮面の佐清が右手を出した。さすがに興奮しているのか、出した|掌《て》がふるえて
いる。松子夫人はどっぷり筆に、朱墨をふくませると、それを掌に塗ってやる。掌が真っ
赤に塗りあげられると、
「さあ、その紙へ……」
佐清は五本の指を、八つ手の葉のようにひろげると、それでべったり白紙の上に押しつ
けた。松子夫人はしっかりその手をおさえながら、毒々しい眼で一同を見回し、
「さあ、皆さん、よくごらんくださいまし、佐清は手型をおしましたよ。なんのペテンも、
いかさまもありませんよ。署長さん、あなた証人になってくださいますわね」
「大丈夫ですよ。奥さん、さあ、もういいでしょう」
佐清が手をはなすと、署長が立っていって、その手型を取りあげた。
「ところで、巻き物というのは……?」
「ああ、それはここに……」
古館弁護士が巻き物を出してわたすと、
「藤崎君、それじゃこれをきみにわたしておこう。どのくらいあれば、ハッキリしたこと
がわかるね」
「そうですね。科学的に正確な報告書を作るのには、相当ひまがかかりますが、このふた
つの手型が同じものか、ちがっているかというだけなら、一時間もあればお知らせするこ
とができると思います」
「そう、それじゃやってくれたまえ。ここで皆さんにいっておきますが、この藤崎君とい
うのは、指紋については権威なんです。こういう田舎におりますが、その点、信用しても
らってよろしい。では、藤崎君。頼む」
「承知しました」
藤崎がふたつの手型を持って立ちあがると、
「ああ、ちょっと」
と、松子夫人が呼びとめて、
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