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犬神家族-第四章 捨て小舟(8)
日期:2022-05-31 23:59  点击:257
耕助はそこで急に言葉をつよめると、
「その首無し死体全体の印象ですがね。そこになにか、死体をかくさねばならぬような秘
密かなにかがありましたか」
橘署長はそれを聞くと、渋面をつくって|小《こ》|鬢《びん》をかいた。
「いや、それは別に、これといって変わったところもないんでしてね。あれなら別に苦労
して、沖まで沈めにいくことはなかったと思うがな」
「チョッキのポケットはさぐってごらんになったでしょうね。ほら、珠世さんが渡したと
いう時計、……」
「むろん、さがしてみましたよ。時計はどこにもありませんでした。犯人が奪っていった
ものか、湖水のなかへ沈んだのか……しかし、どっちにしても、あの時計をかくすために、
死体を沈めに出かけたわけじゃないでしょう。これは金田一さん、あんたのいうとおりか
もしれませんね」
署長が考えぶかい眼つきをして、あごをなでているときである。雨のなかを小走りに刑
事のひとりが駆けつけてきた。
「署長さん、鑑識の藤崎さんが見えてます。手型の鑑定がついたそうです」
「ああ、そう」
署長はちらと、金田一耕助のほうを見た。なんとなく緊張した眼の色である。金田一耕
助も、その眼を見返しながら、ゴクリと生つばをのみこんだ。
「すぐ行く。それじゃね、犬神家の皆さんにも、もう一度さっきの座敷へ集まっていただ
くように伝えてくれたまえ」
「承知しました」
あとのことをこまごまと、部下に命じておいて、橘署長と金田一耕助が、さっきの座敷
へ入っていくと、まだだれも来ていなくて、大山神主がただ一人、神主姿に改まって、泰
然と|笏《しゃく》をかまえていた。
二人が入っていくと大山神主は、鉄ぶちの眼鏡のおくで、眼をしわしわとさせながら、
「やあ、さきほどはどうも……なにかこの座敷でおっぱじまるんですか」
「ええ、ちょっと。……でも、あなたはいてもいいですよ。あなたも関係者のひとりなん
だから」
「いやだな。いったい、なにがはじまるんです」
「ほら、例の手型のことですよ。お宅から持ってかえった……あの手型と、さっき佐清君
がわれわれの面前でおした手型とを、いま比較研究してるんですが、その結果がこれから
発表されようというわけです」
「ああ、なるほど」
大山神主はなんとなく、|尻《しり》をもじもじさせながら、ギゴチない|空《から》|
咳《せき》をした。金田一耕助はきっとその顔を見つめながら、
「それについてね、大山さん、さっきもいっておいたように、ぼくは一度あなたにお尋ね
してみたいと思っていたんですよ。ねえ、大山さん、あれはあなたの知恵だったんですか。
手型を比較すればよいなどといい出したのは……」
大山神主はドキッとしたように、金田一耕助の顔を見た。しかし、すぐその視線をそら
してしまうと、懐中からハンケチを取り出して、あわてて額の汗をぬぐった。金田一耕助
はじっとその様子を見守りながら、
「ああ、それじゃやっぱり、だれかあなたにそれを教唆した人物があったんですね。どう
もぼくははじめから変だと思っていたんですよ。あなたのようなかた……犯罪捜査や探偵
小説にいっこう興味もなさそうなかたが、どうして指紋だの手型だのってことを思いつか
れたのかと、不思議に思っていたんですよ。で、いったい、だれなんです。あなたにそれ
を教唆したのは」
「いや、ああ、別に教唆したってわけじゃないんですがね、一昨日でしたか、わたしども
の神社のほうへ、ある人物がやってきて、こちらに佐清さんの奉納手型があるはずだが、
それを見せてもらえないかというんです。私はそんな巻き物のこと、とうの昔に忘れてい
たんですが、そういわれて思い出した。別にいなむべき筋合いでもないので、巻き物を出
してみせたところ、そのひとは黙ってそれを見ていましたが、やがてありがとうございま
すと礼をいってかえっていったのです。ただ、それだけのことでした。ただ、それだけだ
ったから私はかえって妙に思ったのです。いったい、なんのためにあのひとは、佐清さん
の手型を見にきたんだろう……と、そんなことを考えているうちに、はっと、指紋という
ことに思いいたったのです。そこで昨日、佐武さんや佐智さんにそのことをお知らせした
ようなわけで……」
金田一耕助は署長と顔を見合わせた。
「なるほど。するとそのひとは、あなたに暗示をあたえるために、巻き物を見にきたわけ
ですね。ところで、大山さんいったい、だれですか、そのひとというのは……?」
大山神主はちょっと口ごもったが、すぐ思いきったように、
「珠世さんですよ。ご存じのとおりあのひとは、元来、那須神社の出身なんですから、よ
く遊びに見えるんですよ」
珠世という名をきいた瞬間、金田一耕助と橘署長のあいだには、火花のような視線が走
った。
またしても珠世なのだ! いやいや、なにもかもが珠世なのだ!……ああ珠世はいった
い、あの美しい顔の下にどのような計画を抱いているのであろうか。……
その珠世はいまも、スフ?ンクスのようになぞをひめて無表情である。
仮面の佐清と松子夫人をとりまいて、ずらりと居並んだ犬神家のひとびとが、ことごと
く大なり小なり興奮しているのに、珠世ばかりは端然として、神々しいばかりに静かであ
る。金田一耕助はその静けさを憎いと思った。その無表情が気に食わなかった。そして、
あまりの美しさを|怖《こわ》いと思った。
一座はシーンと静まりかえっている。その緊迫した静けさに、鑑識の藤崎さんも、いく
らかのぼせ気味で、ギゴチなく空咳をすると、
「ええ、それでは、研究の結果をここで発表させていただきます。いずれ詳しい報告書は、
署長さんのほうへ提出いたしますが、ここではめんどうな専門用語はさけて、ごく簡単に
結論だけ申し上げますと……」
藤崎さんは、そこでまた、のどにからまる痰を切るような音をさせながら、
「このふたつの手型は全然、同じものであります。したがって、そこにいらっしゃるかた
が、佐清さんにちがいないということは、このふたつの手型がなによりも雄弁に物語って
いるのであります」
針の落ちる音でも、聞こえるような静けさ――と、いうのは、おそらくこういうときに
使う言葉であろう。だれもひとことも口をきかなかった。みんなまるで、藤崎さんの言葉
をきかなかったように、ポカンとして、それぞれの視線のさきを見つめている。
しかし、そのとき、金田一耕助は見たのである。珠世がなにか言おうとして、口をひら
きかけたのを。……しかしつぎの瞬間、彼女ははたと口をつぐんで眼を閉じた。あとはス
フ?ンクスのように、なぞをひそめて無表情である。
金田一耕助は、そのとき、なんともいえぬいらだたしさが腹の底からムラムラとこみあ
げてくるのを、どうすることもできなかった。ああ、珠世はなにをいおうとしてやめたの
であろうか。
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