第二編
#ここから4字下げ
芝高輪本條写真館のこと
風鈴のある結婚風景のこと
#ここで字下げ終わり
一
昭和二十八年九月七日の午後五時頃、金田一耕助はやたらにタバコを吹かしていた。か
れのまえにある餉台《ちゃぶだい》のうえの灰皿は、いまやタバコの吸殻で盛りあがっ
ている。頭はあいかわらず雀《すずめ》の巣のようにもじゃもじゃしているが、それで
もさっき鏡にむかって櫛《くし》の目をいれたばかりである。薄汚れた白絣《しろが
すり》によれよれの袴《はかま》は例によって例のごとしである。
昭和二十八年のこの時代では、金田一耕助はまだ大《おお》森《もり》の山の手に
ある割《かっ》烹《ぽう》旅館、松月の離れ座敷で居候《いそうろう》をしていた。
ここのおかみは中学時代のかれの親友風間俊六《かざましゅんろく》という男の、金田
一耕助のことばを借りれば、二号さんだか三号さんだかということである。
金田一耕助の占領しているのは四畳半のつぎの間つきの六畳で、粋《いき》で風雅で
どことなく婀《あ》娜《だ》めいたあたりのたたずまいは、金田一耕助のような風来
坊とは、およそ不釣り合いにみえそうなものだが、それが不思議に調和がとれているから
妙である。思うにこの小柄で貧相で、いっこう風《ふう》采《さい》のあがらない金
田一耕助という男は、どこへおいても違和感をかんじさせない、空気みたいな存在なのか
もしれない。
その年はめずらしく台風の少なかった年だった。八月に入ってから台風が二度やってき
たが、二度とも西日本へそれてしまって、東京地方はおしめりていどの降雨しかなかった。
したがって残暑がきびしく、九月にはいってからも連日三十度を越える猛暑であった。
金田一耕助が手にしたタバコを灰皿のなかに揉《も》み消して、また新しいのをつけ
ようとしているところへ、母屋のほうから渡り廊下をわたって、ひとの近づいてくる足音
がきこえてきた。足音はふたりのようである。
来たなと金田一耕助がいずまいをなおしているとき、襖《ふすま》の外で女の声がし
た。
「金田一先生、お客様が……」
「ああ、そう」
金田一耕助は立って四畳半へいくと、半間の襖をひらいて、
「本條さんですね、本條直吉《ほんじょうなおきち》さんですね」
と、ひざまずいた女中の背後に立っている男に眼をやった。三十前後の色白で、髪をキ
チンと左分けにした男で、鼻下にチョビ髭《ひげ》をたくわえている。まっ白なワシ
ャツに黒い蝶《ちょう》ネクタをしめていて、ちょっと小肥りの男である。上衣は着
ていなかった。なんとなく気《き》障《ざ》な服装だが、顔をみてもどこか狡《こ
う》猾《かつ》そうである。その眼は好奇心にもえて、金田一耕助の雀の巣のようなも
じゃもじゃ頭にそそがれていた。
「警視庁の等《と》々《ど》力《ろき》警部さんというかたが……」
と、いいかけるのを、
「ああ、さっき電話を頂戴しました。さあさあ、どうぞ。あなた高《たか》輪《なわ》
署で警部さんに会われたそうですね。警部さんからお電話があったので、さっきからお待
ちしていましたよ。あ、お清《きよ》さん、ちょっと」
と、立ち去りかけた女中を呼びとめて、
「この灰皿かえてきてくれませんか」
「あらま、いやな先生、こんなにお吸いになると体に毒でございますわよ」
「なあに、ちょっと考えごとをしていたもんだからさあ」
吸殻の盛りあがった灰皿を女中が持って退っていくと、餉台のむこうにキチンと膝をそ
ろえて坐った男が、ちょっと上体をのりだすようにして、
「あなたが金田一先生……金田一耕助先生でいらっしゃいますか。等々力警部さんのおっ
しゃった……」
「まさにそのとおり。あっはっは、警部さんの紹介なので、もっとしかつめらしい人物を
想像していらしたんですね。まさにぼくが金田一耕助です。どうぞよろしく」
金田一耕助がペコリと頭をさげたところへ、お清さんがお茶とお絞りと新しい灰皿を持
ってきた。
「お清さん、ぼく金田一耕助にちがいないね。こちらさんだいぶん戸惑いをしていらっし
ゃるようだが……」
「ええ、ええ、あなた金田一耕助先生でございますよ。ほっほっほ、みなさんはじめは戸
惑いなさいますわね。先生、あなたもっとお洒《しゃ》落《れ》をなさいましよ」
「なにをこのあま」
金田一耕助がついお里を出すと、お清さんは首をすくめて、
「あら、ごめんなさい」
と、それぞれのまえに茶《ちゃ》托《たく》をおいて、
「ではごゆっくり」
と、すまして席を立ったまではよかったが、襖《ふすま》の外へ出ると弾《はじ》
けるような笑い声。これでは金田一耕助の威厳さらになしである。
「エヘン」
と、金田一耕助は失われた威厳をとりもどそうとするかのように、気取って咳《せき》
払《ばら》いをすると、
「ときにご用件は…… いや、どうも失礼。お楽にどうぞ。ぼくも膝をくずさせていた
だきますから」
「はあ、では……」
と本條直吉も趺坐《あ ぐ ら》になって、ふくらんだワシャツのポケットから、タ
バコとラターを取り出して火をつけながら、
「ときに、金田一先生、警部さんはぼくのことをどういってらっしゃいました」
「いや、べつに。本條直吉さんてかたがそちらへお伺いするだろうから、よろしく話を聞
いてあげてほしいって……あなたなにか高輪署へとどけ出られたらしいですね」
「はあ」
「ちょうどそこへ、警視庁の等々力警部さんが来ていらしたんですね」
「はあ、警部さんにもいっしょに話を聞いていただきました」
「ところが警部さんのおっしゃるのに、本條君の話だけでは、まだ警察がのりだすべき段
階ではないように思う。だからそちらへ差し向けるから、よく話をきいてあげてほしい……
と、こうおっしゃるんですがね」