「そこ、いまだれか住んでるんですか」
「いや、空家なんですがね。しかし、そんなことこっちは知りませんや。門灯もついてた
し、玄関先にも家のなかにも、煌《こう》々《こう》と電気がついてるんですからね」
「でも、あなたこの家なら知ってるってことおっしゃいましたか」
「それはいいましたよ。これ法眼さんのお屋敷ですねっていったら、やっこさんニヤッと
笑って、そうだよ、おじさん、おれ法眼の身寄りのものなんだ。だから今夜ひと晚貸して
もらった。一生の記念のご祝言のためになって、こういうんです」
「で…… それからどうなさいました」
「ずいぶん広い玄関なんですが、ちゃんと打ち水がしてありましたしね。大きな衝《つ
い》立《たて》もでえんと控えていましたよ、金《きん》泥《でい》に高《たか》
砂《さご》の尉《じょう》と姥《うば》でしたね。そっから広い廊下がつづいてるん
ですが、廊下なんかもよく拭《ふ》きこんでありましたし、ところどころにある行《あ
ん》灯《どん》型の電灯にもちゃんと電気がついてましたよ。それでいて、どこにもひ
との気配がねえんですね。それをわたしが指摘すると、それゃそうだよ、弥生おばあちゃ
んたちはいま田園調布《でんえんちょうふ》だもんというんです」
「弥生おばあちゃんたあだれのこと……」
金田一耕助の声にはあくまでも翳りがない。
「いやわたしもそれを聞いてみました。するとこのヒゲ男のいうには、法眼のおじさんと
いってましたね、法眼のおじさんてだれのことだときくと、琢也おじさんのことだよとい
うんです。そういわれて思い出したんですが、わたしが兵隊にとられていくまえの院長先
生で、たしか法眼琢也ってえらい医学博士なんですが、そのひと病院が爆撃されたとき爆
死したんだそうで、ほかにも大勢死人が出たそうです、医者や患者や看護婦にね。それで
弥生おばあちゃんてえのは、琢也おじさんの連れ合いで、つまり後家さんだっていうんで
す」
「ちょっと待ってください」
と、金田一耕助はさえぎって
「法眼琢也先生ならお名前くらいはしってます。高名なかたですから。ところでその青年、
琢也先生のことをおじさんと呼びながら、先生の未亡人のことをおばあちゃんと呼んだん
ですか」
直吉は虚をつかれたようにギョッとして、金田一耕助の顔を視《み》直《なお》し
たが、
「なるほど、そういわれてみるとおかしいですね。しかし、そのときは気がつきませんで
した。法眼先生も生きていらっしゃったらそうとうのお年《と》齢《し》ですから、
その未亡人なら当然おばあちゃん……」
「と、うっかり聞きのがされたんですね、まあ、いいです、いいです。それで、この青年、
法眼家とどういう関係なんです」
「いや、それをわたしも聞いたんです。いや、聞こうとしたんです。ところがちょうどそ
のとき廊下をまがって、このヒゲ男が突き当たりのドゕを開いたんです。とたんにわたし
なにもかもわかった、一《いっ》切《さい》の謎《なぞ》が解けたと思ったんで、
そっちのほうへ気をとられちまったんですね」
「と、おっしゃいますと」
「そこ十畳じきくらいの洋間になってるんですが、そこがメッチャメッチャなんです。楽
器がいっぱいおっぽり出してあるんです、ギター、トランぺット、ドラム。そう、そう、
サキソフォーンもありましたね」
「じゃ、それ、ジャズの連中……」
「そうです、そうです。いいえ、メンバーはだれもいませんでした。でも、ついいましが
たまで練習してたって証拠歴然で、三つ四つ出てる灰皿はどれもこれも吸殻の山。シャン
ペンのほか洋酒のボトルが二、三本にワングラスにウスキーグラス。灰皿のなか
にゃまだブスブス煙っているのもありましたよ」
「なるほど、しかし、それをごらんになってなにもかもわかったとおっしゃるのは……」
「なあに、ジャズの連中やなんかにゃ、口ヒゲや顎ヒゲをはやしているのがあるじゃあり
ませんか。それにちかごろそうとうの良家や大家の坊っちゃんで、そういうのに凝《こ》
ってるのがたくさんいるってこと聞いてましたからね」
「あ、なるほど。それで一切の謎が解けたと思われたんですね。それじゃこのヒゲ男も法
眼家の一族というわけですか」
「どんな名家にだってひとりくらいクズがいるもんでしょう。不肖《ふしょう》の子っ
てわけですかね」
「で、ジャズのほかの連中はどうしたんです。だれもいなかったとおっしゃったが……」
「わたしもそれを聞いてみましたよ。そしたらヒゲ男のいうのに、なあにいままで花嫁と
いっしょに騒いでいたんだが、いよいよ記念撮影からお床入りということになったんで、
花嫁がむやみに恥ずかしがるもんだから、いちおうお引き取りねがったんだ。いずれお床
入りもすんで晴れて夫婦になったところへ、また引き返してきて、今夜はひと晚騒ぐんだ
って……」
「なるほど、それで……」
「はあ、これからがいよいよ正念場なんですが……やっこさん、楽器やなんかいっぱい散
らかった部屋へわたしを待たせておいて、隣の部屋へはいっていったんですが、しばらく
するとカムンなんて呼ぶもんですから、恐るおそるドゕをひらいてなかへ入ると、そ
こがこの写真の部屋なんですね。二十畳じきくらいもありましたろうか。いっぽうの壁際
にはその金屏風《びょうぶ》、花嫁さんがちゃあんとその椅子に腰をおろして、花婿さん
がそばに立って、左手を花嫁さんの肩においてすましてましたよ」
「そこをあなたがパチリと撮られたわけですね」
「と、いうわけですが、それがちとおかしいんですよ」
「おかしいとおっしゃると……」
「われわれカメラマンというやつは、お客さんにいろいろ注文をつけるでしょう。この
場合だと花嫁さんの裾《すそ》を直したり、着付けがおかしいと襟《えり》元をかき
あわせたり……ところがこのおヒゲの兄いちゃん、絶対にそんなことさせないんです。カ
メラの位置がきまると、その線から一步もまえへ出ちゃいかんというんですね。わたしが
うっかり、花嫁のほうへ近付こうとでもしようものなら、まるで怒れるラオンみたいに、
タテガミ……じゃなかった、この縮れっ毛の長髪をふるわせて憤《おこ》るんです。わ
たしが辟《へき》易《えき》してると、なんでも注文があったらおれにいえ、おれが
ちゃんとしてやるって、ニヤニヤ笑ってるんです。だけど、こっちはおかしくってたまら
ねえじゃありませんか」