「あなたどうしてそれを……」
眉をひそめる金田一耕助の顔を、直吉は探るような眼で視《み》詰《つ》めながら、
「いやね、その家をとび出すと、わたしはまっしぐらに坂を駆けおりようとしたんです。
あとでわかったんだがその坂、裏坂ってえんだそうです。表の病院坂に対してですね。と
ころがその裏坂の途中まできたとき、下からガヤガヤワワ声高に喧《わめ》きなが
ら、坂を登ってくる五、六人連れがみえた。そこ、ちょうど道が字型になっていて、左
側には坂の下に学校の広いグラウンドがひろがっている。右側が細い路地になっていて、
それが病院坂のほうへつながって、急な登り坂になってるんです。最近崖《がけ》くず
れなんかがあったとみえて、路《みち》半分ほど堆《うずたか》く土が盛りあがって
いる。わたしゃその路地のなかへとび込んで、土のむこうへ身を伏せたんですが、正直い
って胸がドキドキしてましたよ。だって、その字型の角のところに街灯がついてるんで、
ひょっとしたら、きゃつらに姿を見られたんじゃねえかと思ったもんですからね」
「なるほど、それで……」
「ところがさいわい、きゃつらのだれもわたしの姿に気がつかなかったらしい。そのうち
入り乱れた足音とともに、こういうことばが耳に入ってきたので、わたしはいよいよ身を
ちぢめましたよ」
直吉は金田一耕助の好奇心をたしかめるように瞳をさだめたが、相手が無言のままタバ
コをくゆらせているので、ニヤッと笑ってことばをついだ。
「写真屋のやつもう引き揚げたろうな。そういう声はそうとう酩酊してるようでした。あ
ったりまえでしょ、あれからもう一時間もたってんだかんな。そうするとビンちゃんいま
ごろはコちゃんを抱いて、お床入りの最中か、チキショウ。だけどおれわかんねえな。
なにがよ。だってビンちゃんとコちゃんきょうでえだろ、兄貴が妹とツルむなんて。バ
カだなあ、てめえは。どうせおれはバカだよ、コちゃんを口説いてビンちゃんに、こっ
ぴどく制裁うけたようなノロマだかんな、見ろよ、おれの左の眼。そうそう、あんときゃ
おれもおったまげたな、ビンちゃんにぶん殴《なぐ》られてよウ、てめえの目玉がトロ
ンと飛び出してきたときゃな。あんときのビンちゃんの剣幕ったらなかったかんな、コ
に指一本ふれてみろ、みんなこのテキサスのテツのようにしてみせるって。ちげえねえ、
日頃はいつもニコニコしててさ、ヒゲだらけの仏様みてえなビンちゃんだのに、あんとき
ばかりゃ悪鬼だったな、羅《ら》刹《せつ》だったよ、あんなおっかねえビンちゃん
みたことねえな。おっと、ちょい待ち。なんだ、なんだ。こんなかにコちゃんに惚《ほ》
れてなかったやつは手をあげろ、うっふっふ、ひとりもいねえな、そうすると今夜のご婚
礼、ひょっとするとひょっとすんじゃねえか。なにがよウ、なにがひょっとすっと、ひょ
っとすんだよう。だってさ、コちゃんを自分の情婦《お ん な》か、かみさんてえこ
とにしておいたら、こちとらだれも手が出せねえだろ。あ、なあるほど、すると今夜のご
婚礼は擬装結婚かあ。……まあ、だいたいそんな調子でしたね」
「すると、その連中、ジャズバンドのメンバーなんですね」
「そうです、そうです。口々に勝手なことをほざきながら街灯の下をとおっていったんで
すが、百鬼夜行とはあのこってすね。ゕロハのやつもいれば、真っ赤なシャツを着たやつ
もいる。なかにひとり片眼に眼帯をあて、外国映画に出てくる海賊みたいな恰好をしてい
たのが、テキサスのテツというやつでしょう。みんな二十から二十三、四という年恰好で
したが、どいつもこいつもヒゲ生やしてましたね」
「その連中が問題の家へ入っていったんですね」
「ええ、そう、連中が通りすぎたあと、こっそり路地からのぞいてみると、やっこさんた
ち問題の家のまえまでくると急に静かになり、ひとかたまりになってなにやら評議してま
したが、そのうちに家のなかから高らかに聞こえてきたのがトランペットの音、やっこさ
んたちそれを聞くと、わっと喊《かん》声《せい》をあげて門のなかへなだれこみま
したよ」
「あっはっは、トランペットはよかったですね。勝利の勝《かち》鬨《どき》という
わけですか。ところであなたの受けた印象はどうでした。それたんなる擬装結婚だったん
でしょうか。それとも新郎新婦のお床入りの儀式が、ほんとうに執《と》り行なわれた
のでは……」
「わたしはたしかに夫婦の契《ちぎ》りというやつが、あったとしか思えないんですが
ね。廊下ひとつ隔ててましたが、むこうの座敷からきこえてくる男と女の息遣い、女の
喘《あえ》ぎ、男の咆《ほう》哮《こう》、その昂まりから察するとね。もちろんわた
しゃしまいまで聞いちゃいませんでしたが」
しかし、直吉が薄く瞼《まぶた》をそめたところをみると、この男、終わりまで聞い
ていなかったにしろ、そうとう長くそこに佇《たたず》んで、座敷のようすをうかがっ
ていたにちがいない。
「それからあなたどうしました。まっすぐ家へかえりましたか」
金田一耕助はいたって事務的な調子である。
「そうはいきませんや、わたしゃ無性に腹が立っちまいましてね。いまいましくて仕方が
ねえもんだから、泉岳寺わきの縄《なわ》暖《の》簾《れん》へ首をつっこみ、十
二時過ぎまで飲んでましたよ。家へかえったらかれこれ一時、おやじや房太郎はまだ起き
ていて、なんのかんのと聞いてましたが、わたしゃもうズブズブでそのまま寝っちまった
んですが、さてその翌日のこってす。二日酔いで眼がさめたのが昼過ぎでしたが、おやじ
や房太郎がいろいろ聞くもんですから、ま、ありのまま話してやったんでさ。そしたら、
おやじめ、ひどくびっくらしましてね、それじゃそれ病院坂の首縊《くく》りの家じゃ
ないかというんです」
「病院坂の首縊りの家……」
オウム返しにきく耕助の顔を、直吉はいくらか凄《すご》みのある眼でジロリと見な
がら、
「先生はなにかこのことばに心当たりが……」
「いや、そういうわけじゃありませんが、だれかその家で首を縊ったひとでもあるんです
か」
「おやじの話によるとわたしが復員するまえだから、昭和二十二、三年のことじゃないで
すか、その家で女がひとり首を吊ったんだというんです。その話、房太郎もおぼえてまし
てね、あれはたしか二十二年の梅雨時分だった、病院坂の空家で女がひとり首を縊ったて
えんで、えれえ騒ぎだったそうです」
「その女というのはどういうんです。法眼家になにか関係のある女性なんですか」
「さあ、それがね、おやじはいくらかそのいきさつをしってるらしいんですが、いいたが
らねえんですね。それよりそんな空家でそんなことがあったとあれば捨ててはおけねえ、
すぐいってみろとせきたてるんで、房太郎といっしょにいってみたんですが、いってみて
呆《あっ》気《け》にとられてしまいましたね」