「ええ、もう絶対に間違いなし。松山書店の店員さんに、こっそり面通しというやつをし
てもらったんですからね。いちど会ったら、忘れられねえっていう獰《どう》猛《も
う》な面構えしてまさあ」
「ああ、そう、それなら大丈夫だね。ときに本名はなんてえの」
「山《やま》内《うち》敏《とし》男《お》……ふつうビンちゃんでとおってま
す」
金田一耕助はまた声がかすれそうになった。その男にコちゃんという妹がありはしな
いかと、訊こうとしたが思いなおした。
「なるほど、すると天竺浪人こと山内敏男君ひきいるところのジャズコンボ、ゕングリ
ーパレーツの演奏が、今夜九時からあるというんだね」
「ええ、そうです、そうです。だからそこへいけば先生がいま調査中の、天竺浪人てえ人
物に会えるわけです」
「いや、まだ正面切って会うつもりはないんだがね。こっそり見ておきたいというていど
なんだ」
「それはいいでしょ。お客さんみてえな顔をしてれゃいいんですから」
「場所はどこ…… いや、どの方角……」
「銀《ぎん》座《ざ》界《かい》隈《わい》だと思ってください。だけど、先生
ひとりじゃ駄目ですよ。そこ秘密クラブみたいになってるとこですから」
「だれも君を出し抜こうとはいっていないさ。シュウちゃん、君の時計いま何時」
「ぼくの時計…… ぼくの時計はいま六時八分まえです」
「よし、おれのもおんなじだ。じゃシュウちゃん、こうしよう。おれちょっと寄り道する
ところがあるんだ。だけど八時までなら銀座へ出られると思う。八時ジャストに銀座のど
こかで落ちあおうじゃないか」
「じゃ和《わ》光《こう》の角あたりどうです」
「、じゃ、八時ジャスト、和光のまえだね」
ここでいちおういまの電話の相手、多門修なる人物について紹介の労をとっておくのも
無駄ではあるまい。
金田一耕助シリーズのうちこの男は「支那扇の女」と、「扉の影の女」のなかで重大な役
割りを果たしているが、「扉の影の女」で私はこの男のことをつぎのように紹介している。
多門修――。
この男のことについては「支那扇の女」のなかでかんたんに紹介しておいたが、一種の
ゕドベンチュラーなのである。まだ若いのに前科数犯という肩書きをもっている。先年殺
人事件にまきこまれて、あやうく犯人に仕立てられるところを、金田一耕助に救われたこ
とがある。
それ以来、金田一耕助にひどく傾倒していて、ちかごろでは股《こ》肱《こう》を
もって任じている。元来が悪質な人間ではなく、さっきもいったとおり一種のゕドベンチ
ュラーで、スリルを好む性癖がわざわいして、つい法の規律から逸脱したらしい。金田一
耕助に心酔しはじめてから、適当にスリルを味わえる仕事を提供されるところから、ちか
ごろでは法網にふれるようなことはやらなくなった。
ふだんは赤坂のナトクラブ、の用心棒みたいなことをやっているのだが、
活動的な調査を必要とするとき、金田一耕助にとってはしごく便利な手先であった。……
電話を切ると金田一耕助は、深《しん》淵《えん》でものぞくような眼つきをして、
しばらくシーンと考えこんでいたが、やがて立って整理ダンスの抽《ひき》斗《だし》
から、大きな茶色の封筒を取り出してきた。表に墨くろぐろと金田一耕助の筆で書いてあ
る。
「法眼一家に関する調査覚書」
封筒のなかにはおびただしい調査資料の綴《と》じ込みがあるらしいが、そのなかか
ら金田一耕助がまず取り出したのは一冊の小冊子である。判くらいの大きさで、ペラ
の表紙は薄タマゴ色をしており、周囲を赤い細い線でかこってある以外は、一《いっ》
切《さい》無装飾である。題は活字体の文字で、
#ここから字下げ
詩集 病院坂の首縊りの家
#ここで字下げ終わり
と、あり、著者の名は天竺浪人。
パラパラとページをくってみると、戦後はやった仙《せん》花《か》紙《し》ほ
どではないにしても、粗悪な紙に十二ポントくらいの活字のあらい組みかたで、詩らし
きものが印刷してある。ページ数は六十四くらい。
奥付をみると昭和二十六年三月十五日発行とあり、著者の名はやはり天竺浪人。発行所
は神《かん》田《だ》神《じん》保《ぼう》町一丁目七番地、松山書店とあるが、
三百部限定版とあるところをみると、自費出版ではないかと思われる。
金田一耕助はそれを封筒のなかに戻すと、また新しくべつの本を取り出した。
法眼琢也の歌集「風鈴集」である。
このほうはもちろん戦前版で、出版社はいまでも繁栄している有名な書店である。布表
紙箱入りの上製本だが、金田一耕助はこれをどこかの古本屋ででも見つけてきたらしく、
箱も本の綴じもそうとう傷んでいる。
金田一耕助は箱から抜き出した本のページを、しばらくパラパラ繰っていたが、やがて
もとどおり箱におさめて封筒のなかにしまうと、さいごに取り出したのは一葉の写真であ
る。
それはあきらかにゕマチュゕカメラマンが撮影したものを、ハガキ大に引き伸ばした
写真で、被写体は二十前後の女性である。乗馬服を着て、婦人用の鳥打ち帽《ぼう》
子《し》をかぶり、二つに折り曲げた革の鞭《むち》を胸に抱いてニッコリ笑っている
女性の上半身だが、金田一耕助はその写真と、いま本條直吉がおいていった、結婚記念の
写真とふたつ並べて、そこに写っている女の顔を見くらべた。
本條直吉はいみじくもいったではないか。女は化け物である。そして化粧とは化《ば》
け粧《よそお》うと書くと。
金田一耕助にはこのふたりの女性が同一人物としか思えない。眼もと口もと鼻のかたち、
頬のふくらみ、この花嫁の顔から化け粧うた紅《べに》白《おし》粉《ろい》をは
ぎおとすと、あとに残るのは革の鞭の女性の顔ではないか。
写真の裏をかえすと、
#ここから字下げ
法眼由香利 二十一歳
昭和二十七年夏 於軽《かる》井《い》沢《ざわ》
#ここで字下げ終わり
この紫ンキの流麗《りゅうれい》な文字は、金田一耕助の眼のまえで、由香利の祖
母弥生が書いたものである。
金田一耕助はまた写真の表をかえすと、喰《く》いいるようにふたりの顔を見くらべ
ながら口のなかで呟《つぶや》いた。