「由香利ちゃん、さっきの本條直吉君の話がほんととすると、君が一人二役を演じている
のか。それともこの世の中に、君とそっくりおなじ顔をもったお嬢さんが、もうひとり存
在するとでもいうのかい」
金田一耕助は二葉の写真を封筒のなかにしまうと、整理ダンスの抽斗に戻そうとして、
ふっと不安を感じたように首をかしげた。
金田一耕助は自分のポーカーフェースに自信をもっている。しかし、それでもなおか
つこの花嫁の顔をみたとき、内心の驚きが表面に現われなかったかどうか心もとない。
自分はたしかに花嫁の顔を見たとき、ハッとし、ギョッともしたのだ。本條直吉のあの
貪《どん》婪《らん》で執《しつ》拗《よう》な眼が、それを看《かん》破《ぱ》
しえなかったと断言できる自信はない。
金田一耕助はあらためて六畳と四畳半の離れの内外を見まわした。ここはまったく無防
備にできている。ガラス戸の外に雨戸がしまることになっているが、そんなものこじ開け
ようと思えば造作はない。しかも、ここは母屋からそうとう離れている。
わけを話してお内《ない》緒《しょ》の金庫にあずけようか。しかし、わけとはな
んであろう。これはいわれのない自分だけの不安であり、疑いではないか。こんなことで
女主人を騒がせるのは心ない仕《し》業《わざ》というべきである。
とつぜん金田一耕助の顔に悪《いた》戯《ずら》っぽい微笑が、さざなみのように
ひろがった。嬉しそうにもじゃもじゃ頭をひっかきまわした。
そうだ、成城の先生に預けてやろう。「詩集 病院坂の首縊りの家」とその著者天竺浪人
については、このあいだ成城の先生の意見を聞いたことがある。例によって世間のせまい
先生は、なにもご存じなかったが。あの先生ときたら日頃は猫みたいに横着だが、好奇心
だけは旺《おう》盛《せい》だから、きっと封筒の中身を調べるだろう。しかし、そ
れだって構わない。あの先生、口は固いし、自分の許可がないかぎり、絶対に筆を執《と》
らないことは、いままでの例からみても保証つきである。それにこの一件、いまのところ
どういうふうに発展していくのか予測もつかないが、将来記録にとどめておかねばならな
いような事件となって、進展していくかもしれないのである。そんな場合この複雑な人間
関係を、いちおう頭にたたきこんでおいてもらうのも、悪いことではないかもしれない。
しかし、時間は……
腕時計を見ると六時五分。しかも、金田一耕助は途中病院坂へよってみるつもりなので
ある。
成城までの往復の時間を胸算用ではじいてみて、
〈まあ、いいさ。問題のジャズの演奏は、九時からはじまるといっていたではないか。そ
れまでにまにあえばいいんだ。シュウちゃんはきっと待っていてくれるだろう〉
金田一耕助はありあう風《ふ》呂《ろ》敷《しき》にそのかさばったものを包み
こむと、小脇にかかえて部屋を出ようとしたが、ふと気がついたのは餉台《ちゃぶだい》
のうえにある五枚の千円紙幣である。それをとって無造作に紙入れのなかへしまうと、
「すまないねえ、直吉つぁん。あんたこの金田一耕助を利用して、いったいなにをやらか
そうとしているのかしらないが、この調査費はむしろこちらから差し上げるべきだったん
だ。ぼくがいま調査中の事件について、あんた素晴しい情報を持ってきてくれたんだから
ね」
金田一耕助はそれからまもなく蓬《ほう》髪《はつ》のうえに、苦茶苦茶に形のく
ずれたお釜《かま》帽《ぼう》をのっけて、まだ暮れきらぬ都会の黄《こう》塵
《じん》のなかへ飄々《ひょうひょう》として出ていった。なんの木かしらないが、ひ
ねこびれて瘤《こぶ》々《こぶ》だらけのステッキを右手に持って。
予感はあった、なにかしら不吉な。
しかし、これがあのようにおぞましい、血みどろな事件となって発展していこうとは、
さすがに金田一耕助もまだ気がついていないのである。