「ええ、そう、わたしたちには従い兄と弟こに当たるのですけれど、どういうわけか伯母さまがたも兄もこの人をきらって……慎太郎さんが来るといつも兄のきげんが悪いのです。でも今日はあなたのことがあるものですから、こちらから使いを出して、わざわざ来てもらったんですの。妹さんの典子さんもいっしょに来ていますの」
つまり大伯母たちは私のかえってきたことを一刻も早く披ひ露ろうしたいらしいのだ。それが私に対する純粋な好意から出ているのであったならば、私も大いにありがたいのだけれど、そこには多分に、ある人に対する当てつけの気味がまじっているらしいので、それが私の心を重くした。
「お客さまはそれだけですか」
「いいえ、ほかに久野の恒つねおじさんが来ています。久野の恒おじさんというのは、父の従兄に当たる人ですからそのおつもりで……」
「医者をしているかたですね」
「ええ、そう、よく御存じですね、美也子さんからお聞きになったの」
「いや、バスのなかで吉蔵とかいう博労がそんな話をしていましたから」
「ああ、吉蔵……」
姉は眉をひそめて、
「お島にきいたんですけれど、昨日村の人たちが、何かあなたに無礼な態度があったそうですね。いつか折りがあったら、わたしからもよくいっておきますが、あなたも気をつけてくださいね。みんな頑がん固こだけれど、別に悪い人たちではないのですから……」
「よくわかっております」
「そう、では、御案内しましょう」
兄の久弥の寝ているのは、中二階みたいになった薄暗い裏座敷で、庭には紫陽花あじさいの花がほの白く咲いていた。姉がこの座敷の障子をひらいたとたん、私はなんともいえぬ臭気にうたれて、思わずちょっとたじろいだ。私はこの臭気に記憶があった。それはずっとまえ肺はい壊え疽そで死んだ友人の部屋で経験した臭気である。肺結核は療養法さえあやまらなければ、治りやすい病気といわれているが、肺壊疽では助からぬ。大伯母たちがとてもこの夏を越せまいといったのも無理はないと思うと、私はまず運命を宣告されたこの人のいたましさに心が暗くなった。
兄はしかし案外元気であった。姉が障子をひらいたとたん、寝ていた人が鎌かま首くびをもたげるようにしてこちらを見たが、私と視線が合ったとき、病人特有の、ギラギラと油のういたような眼から、さっと火花が散ったように思われた。しかし、それも一瞬で、やがてにやっとなぞのような微笑をうかべると、そのまま枕に頭をつけた。
兄は私より十三上だということである。したがって今年四十一になるはずだが、病気でやつれているせいか五十にはたしかに見えた。全身から肉という肉をそぎ落とされて、いたいたしく骨ばった皮膚には生気というものがまったくなく、ぐりぐりととび出したのど仏にも、死の影がうかがえるように思われる。しかし、それでいて、兄の顔色にはどこか精せい悍かんの気があふれていた。自分の寿命をあきらめながら、なおかつ、何かとたたかっているような強い意志のひらめきがあった。だが、それにしても、いまのなぞのような微笑は何を意味するのだろう。
「お待たせいたしました。さあ、辰弥さん、どうぞ」
「辰弥、ここへおいで。皆さん、さっきからお待ちかねじゃがな」
兄の枕元には小梅様と小竹様が、相変わらず二匹の猿のように座っていたが、そのひとりが自分のそばの席を指さした。私はむろん、そう声をかけたのが小梅様だか小竹様だかわからなかったが、いわれるままに席につくと、だれにともなく頭をさげた。
「久弥や、これがおまえの弟の辰弥じゃえ。りっぱになったもんじゃろがな。辰弥、これが兄さんじゃ」
私が無言のまま頭をさげるのを、兄は食いいるような眼で見つめていたが、やがてゴロゴロ痰たんのからまるような声で、
「ほんにええ男ぶりやな。田治見の筋にこんなええ男が生まれたとは珍しい。はっはっは……」
どこか毒々しい笑い声だったが、笑った拍子に兄ははげしく咳せき込んだ。咳とともにあのいやなにおいが部屋のなかに充満する。その臭気も臭気であったが、私は兄のいまの言葉に、顔をあげていられなかった。兄はひとしきり咳きこんで、やっとそれが納まると、首をねじまげて、向こうに座っている人たちに声をかけた。
「慎さん、どうじゃな。こんなええ弟がかえってきたので安心というもんじゃあるまいか。わしもな、こんなええ跡継ぎができたで、安心して眼をつむれるというもんじゃ。久野のおっさん、あんたも喜んでおくれ。あっはっはっは」
兄がまた咳きこみそうになったので、老婆のひとりが急いで吸い飲みを口に当てがってやった。兄はのど仏をぐりぐりさせながら、ごくごく水を飲んでいたが、やがて首を横にふると、
「もうええ、もういらん。伯母さん、うるさいがな」
と、突っぱねるようにいって、それからまた私のほうに首をねじむけた。
「辰弥、ひきあわせておこ。向こうのはしに座ってござるのが、久野のおっさんや。お医者さんやぜ。ちかごろ村にはもっとええお医者さんができたそうなが、そこは親戚やでおまえも病気になったら、せいぜいおっさんに診てもらい。それからな、その隣に座っているのが、おまえの従兄の慎太郎さんや。無一物同然になって村へかいらはったんやが、おまえもせいぜい昵じっ懇こんにしてもらいや。ええか。郷に入っては郷にしたがえや。みんなにかわいがられるようにせないかん。そしてな、よう気をつけて、田治見の財産、ひとにとられんようにせなあかんぜ」
兄はそこでまたはげしく咳きはじめた。私はそのいたましさにハラハラすると同時に、また何かドスぐろいものが、いかの墨のように腹の底にひろがる感じだった。どういう事情があるのか知らないが、久野のおじや従兄の慎太郎に対する、兄の憎悪というか、敵意というか、それはあまりにも露骨でえげつなかった。親戚同胞、いかなればこそ、かくも相憎まねばならないのだろうか。そこに田舎の旧家というもののむつかしさを感じて、私はあさましいような、情けないような、同時にまた、なんともいえぬ暗あん澹たんたる感じにうたれずにはいられなかった。
興奮したせいか、兄の咳はなかなかおさまらなかった。咳いて咳いて咳きいって、そのまま息が絶えてしまいはしないかと思われるほどだった。咳と咳とのあいだに、ヒーッと痰のからまる音が、身を切るように切なくて、しかもあのなんともいえぬいやな臭気は、いよいよ強く、梅雨時のしめった空気のなかに立ちこめた。