しかし、だれも手を下して、兄を介抱しようというものはいなかった。双生児の小梅様と小竹様は、ちんまりと正面きったまま、兄のほうへは眼もくれなかった。それはすでに兄の寿命をあきらめきった姿なのだろうが私にはなんだか薄情に思われてならなかった。はるか末座に座った姉の春代は、うつむいてかすかに肩をふるわせている。見ると首筋から横顔へかけて、火をつけたように赧あかくなっていた。おそらく彼女もまたあまりのあさましさに顔をあげることができないのであろう。
久野の恒おじ──あとで知ったのだが、このひとの名は久く野の恒つね実みというのであった──という人は、六十ぢかい痩やせぎすで眼のギロリとした、胡ご麻ま塩の髪の毛の硬そうな人物だったが、この人は眼まじろぎもしないで、遠くのほうから咳きこむ兄の様子を見守っている。もし視線が人を殺すものなら、あのとき兄は一瞬にして悶もん絶ぜつしたろうと思われる。面長の鼻の高い、若いときは相当好男子であったろうと思われるような顔立ちだから、年をとると人相がいっそうけわしくなる。そのとき、恒おじの顔にあらわれていたものは、憎々しさと、態ざまアみろといわぬばかりのあざ嗤わらいのほか何ものでもなかった。
いとこの里村慎太郎──私は最初この座敷へ入ってきたときから、いちばん多くこの人に注意をはらっていたのだが、この人の気持ちばかりはどうしても忖そん度たくすることができなかった。年齢は姉の春代とおっつかっつというところだろう。太り肉じしの、色の白い大男で、頭を丸刈りにして、かなりくたびれたセルを着ているのが、いかにも軍人あがりらしいが、無精ぶしょうひげがもじゃもじゃと生えているところは、いつか美也子もいったとおり、かなり爺むさい感じであった。
さっきもいったとおり、私は座敷へ入ってきたときからこの人の顔色に注意していた。できればその顔色から、何かを読みとろうと試みた。だが、その結果といえば、ことごとく失敗というよりほかはなかった。むっつりと腕組みをしたこの人は、どんなときでも眉根ひとつ動かさなかった。平々淡々としてそっぽを向いていた。見ようによっては、大胆不敵とも受けとれたが、また、別の見方をすれば、一種の虚脱状態にあるのではないかと疑われもした。
慎太郎のすぐ隣に、妹の典子が座っている。私はひとめその顔を見たときから、醜い女だときめてしまった。人間というものは現金なものだ。もし彼女が美人であったならば、私も大いに同情もし、父の罪業に関して自責の念も感じただろう。しかし、彼女があまり美しくなかったのでいっこうそんな気が起こらないばかりか、私はいくらか安心したような気持ちだった。
典子はきょとんとしたような顔で、一座の人々を見回している。無邪気といえば無邪気だが、いくらか足りないのではないかと思われた。額の広い、頬ほおのこけた女で、なるほど美也子のいったとおり、私とひとつ違いとはどうしても見えない。と、いってそれは若々しいという意味ではなくて、成熟しそこなったという感じである。いかさま月足らずということが、ひとめでわかるようなひ弱よわさであった。彼女は不思議そうな顔をしてひとりひとり見回していたが、やがてその視線が私の上に来ると、そこではたと静止してしまった。まじまじと彼女は私をながめた。しかし、そこには取りたてていうほどの特別の感情はなさそうだった。ただ、無邪気に、もの珍しげにながめているだけのことらしかった。
兄の咳はなかなかやまない。咳と咳との間にまじる、ヒーヒーと笛を吹くような音が、いよいよ切なく骨をえぐる。それでもまだ、だれも口を出さないので、何かしら、重っ苦しい空気が、圧迫するように一座の上にのしかかって来た。
と、このとき突然、兄が手をふって、
「馬鹿! 馬鹿! おれがこんなに苦しんでるのに、だれも何もしてくれないのか、馬ば……」
そこでまた、兄ははげしく咳きこんだ。見るとこめかみのあたりに、ぐっしょりと冷たい汗がういている。
「薬を……薬をくれ、薬を……だれか薬を……」
双生児の小梅様と小竹様が顔を見合わせた。それから軽くうなずくと、そのうちの一人が枕元にあった手文庫をひらいて、中から畳んである薬包紙をひとつ取り出した。別のひとりが吸い飲みをとりあげた。
「そら、久弥、薬じゃぞ」
枕にしがみついていた兄は、その声に鎌首をもたげて、吸い飲みのほうへ口を持っていったが、何を思ったのか私のほうへ首をねじ向けると、
「辰弥、これが久野のおっさんの薬や。見てみい、ようきくぜ」
何を思ってあのとき兄は、あんなことをいったのか、いまもって私には兄の真意がわからない。たぶんそれは久野のおじに対する単なる皮肉だったのだろうが、あまりにもその言葉は的中しすぎた、それも恐ろしい意味で……。
ふたりの老婆から薬を飲まされた兄は、しばらく枕に顔をおしあてていた。どうやら咳は一時おさまったらしかったが、さっきの疲れか、細い肩が大きく波打っていた。しかしそれもだんだんおさまってくるらしいので私もほっと胸なでおろしたが、そのときだった。突然、兄の体がギクンと大きく痙けい攣れんした。
「あ、あ、あ、くく、苦しい……み、水……」
寝床のなかから這はい出して、兄は両手でのどのあたりをかきむしった。その形相のすさまじさは、さっき咳に苦しんでいたときの比ではなかった。私はふっと祖父の臨終を思い出して、全身に粟あわ立つのを覚えた。
「あっ、伯母さん、に、兄さんが……」
ふたりの大伯母たちも、いつもとちがった兄の苦しみかたにいくらか狼ろう狽ばいしたらしい。あわてて吸い飲みを口へもっていったが、兄はもうそれを飲むことができなかった。吸い飲みの口が歯にあたって、カチカチと音を立てるばかりであった。
「久弥、これ、しっかりせえ、水じゃぞ、ほら、水じゃがな」
兄はしかし、その手をはらいのけるようにして、またひとしきりのどをひっかいていたが、やがて、があーッと白い枕覆いの上に血を吐いた。そして、それきり動かなくなった。