酢のものぎらい
私の悪夢はまだまだつづく。気ちがいめいたこの馬鹿騒ぎ、意味を捕捉することもできぬ殺人茶番……私はそれからのちも、まだまだ、恐ろしい経験をなめなければならなかったのだ。がそのなかでももっとも肝を冷やしたのは洪禅さんの断末魔だった。
洪禅さんの血を吐くのを見ると、疎開医者の新居先生がつと席を立った。しかし、すぐ気がついたように、
「久野先生、ちょっとお手を……」
と、恒おじを呼んだ。私もその声に恒おじのほうを見たが、そのときの恒おじの顔を、いまもって忘れることはできない。恒おじは座ったまま、中腰になってお膳の上から乗り出していた。額にはいっぱいの汗だった。眼玉が外へとび出しそうであった。杯をにぎったまま、膝ひざにおいた右のこぶしが、ブルブルとはげしくふるえていた。そのこぶしのなかで、バチンと杯のわれる音がした。
新居先生からよばれて、恒おじはハッと気がついたように、ハンケチを出して額の汗をふいた。そのとき掌たなごころにながれる血にはじめて気がついたらしく、あわててハンケチでゆわえた。それから立って、新居先生の招きに応じた。膝頭がガクガクふるえているようであった。
新居先生は不思議そうな顔をして、ジロジロとその様子を見ていたが、やがてテキパキとした手つきで、洪禅さんを診察し始めた。
「だれか、恐れ入りますが、玄関に私のカバンがありますから……」
言下に美也子が立った。新居先生は二、三本注射をうったが、やがて、あきらめたように首をふって、
「だめです。もういけません」
「先生、死因は……?」
村長がヘシャげたような声で尋ねた。
「さあ、解剖してみなければ、正確なことはいえませんが、やはり、こちらの久弥さんの場合と同じじゃないでしょうか。久野先生、あなたの御意見はいかがですか」
久野の恒おじは放心したように眼をみはって、新居先生の言葉も耳に入らぬかのようであった。一同はあやしむように、ジロジロとその様子をながめていたが、そのとき、だれかが、強く私の背中を小突いた。
「こいつだ、こいつだ! こいつが毒を盛ったのだ!」
ギョッとしてふりかえった私の鼻先に、恐ろしい形相をして、指をつきつけているのは、麻呂尾寺の英泉さんだった。
「貴様だ! 貴様が毒を盛ったのだ。貴様は自分のじじいを殺した。それから兄を殺した。そして、こんどはおれを殺そうとして、まちがって、洪禅君を殺したのだ!」
英泉さんの額には、みみずのような癇癪筋かんしゃくすじがふくれあがり、吊つりあがった眼が、眼鏡の奥でギラギラと血走っていた。一瞬、さっとつめたい殺気が、座敷のなかにみなぎりわたった。
そのとき、だれかがバラバラと私のうしろへ来て、私をおしのけると、まえに立ちはだかった。姉の春代だった。
「まあ、麻呂尾寺さん、なにをおっしゃるのでございます」
姉の声はいかりにふるえた。
「辰弥さんが、どういう因縁で、あなたに毒を盛るというのです。あなたと辰弥さんとのあいだに、どういう関係があるというのです」
英泉さんははっと気がついたように、怯ひるんだ色を見せた。それからあわててあたりを見まわした。一同の眼が自分の上に注がれているのを見ると、さらに怯んだ色が深くなり、狼ろう狽ばいしたように、衣の袖そでで額をこすった。
「いや、こ、これは失礼を……」
「失礼もないものでございます。麻呂尾寺さん、さあ、聞かせてくださいまし。辰弥さんがどうして、あなたを殺すというのでございます。どうしてあなたに毒を盛るというのでございます」
姉ははあはあと、あらい息遣いをしながら英泉さんにつめよった。英泉さんはますます狼狽して、
「いえ、もう、なんでもありません。あまり恐ろしいところを見たものだから、つい逆上して……とんだことを申しました。どうぞ、水に流して、忘れてください」
「いかに逆上したからって、いっていいことと、いっていけないことがありますよ。麻呂尾寺さん、もっとハッキリいってください。あなたと辰弥さんと、どういう関係が……」
「姉さん、姉さん、もういいですよ。あんまり興奮なさると、お体のためになりません」
「だって、あんまりくやしいんだもの……」
姉は袂たもとを顔にあてると、肩で息をしながら泣き出した。
それにしても、英泉さんは、なんだってあのようなことをわめきたてたのだろう。いかに逆上したとはいえ、全然、心にもないことが、口をついて出るとは思えぬ。洪禅さんが毒殺されたとわかったとたん、自分とまちがえたのではあるまいかという疑いが、ふっと心にわきあがったのにちがいない。しかし、それはなぜだろう。……
英泉さんはこういった。
「貴様は自分のじじいを殺した。それから兄を殺した。そして、こんどはおれを殺そうとして……」
なぜだろう。祖父と兄のつぎに、なぜ、英泉さんをねらうのだろう。わからない。私にはわからぬ。何もかもがなぞだった。