「辰弥さん」
だしぬけに私の胸にとりすがり、声をあげて泣き出した。
「姉さん、ど、どうしたんですか」
私も驚いたが、典子もびっくりしたらしい。呆気にとられて、眼を大きく見はっている。
姉は私の胸に武者ぶりついたまま、なおもはげしく泣きむせびながら、
「辰弥さん、堪忍して、堪忍して。……あたしがあなたにつめたくするなんて、そんな、そんな……いいえ、あたしが悪かったのよ。あなたに悪いところなんかちっともないの。みんなあたしが悪かったのよ。堪忍してね、堪忍してください」
姉は私の胸に顔をこすりつけ、こすりつけ、なおもはげしく泣きつづける。姉の涙が寝間着のまえをとおして、私の胸にやけつくようにしみとおった。
私は茫然として立ちすくむ。姉のこの突然の激情を、私はなんと解釈してよいのかわからなかった。したがって、姉を慰めようにも、なんといって慰めてよいのかわからなかった。私はただ、手をつかねて、姉のこの激情のあらしが、おさまるのを待っているよりほかはなかった。典子もオロオロしていたが、さりとて慰める言葉もないらしく、ただ心配そうな顔をして、姉の様子を見守るばかりであった。
だいぶたって、やっと姉のすすり泣きが、下火になったところを見計らって、私は静かにその肩をなでてやった。
「姉さん、姉さん、あなたはきっと疲れていらっしゃるんですよ。だから、なんでもないことに、感情がたかぶってくるんです。ねえ、もう帰りましょう。帰ってゆっくり休息しましょう」
「すみません」
姉はやっと私の胸からはなれると、涙をふきながら、含はじ羞らいの色をいっぱい浮かべて、まぶしそうに私の顔を見た。
「ほんとにあたし、今夜はよっぽどどうかしているわ。なんでもないことに腹が立ったり、急に泣き出したくなったり、……典子さん、あなたびっくりなすったでしょう」
「いいえ。それよりもあたし心配だったわ。お姉様、どこか、御気分が悪いんじゃありません」
「そうですよ、きっと。過労なんです。このあいだじゅうずうっと寝ていたくらいですものね。こんなところにいちゃ、体に毒ですよ。姉さん、もう帰りましょう」
「ありがとう。でも、あたしこのまま帰る気にはなれませんわ。小梅伯母さんの安否がわかるまでは……」
そうだ。そのこともある。あの哀れな小雀のような老婆を捨てておいて、このままひきかえすわけにもいかなかった。と、いってここからひとり、姉に引き返せというのも心もとなかったし。……
「姉さん、それじゃ、しばらくそのへんで休んでいきましょう。そうすればまた元気が出るかもしれません」
「そうねえ。では、そうしましょう」
姉はもう私の言葉にさからわなかった。
「典ちゃん、どこかそのへんに、休めるようなところない?」
「ええ、あたし、探してみるわ」
典子は提灯をかかげてそのへんを探していたが、
「ああ、お兄さま、ここがいいわ。ここなら土もしめっていないし。……お姉さま、こちらへいらっしゃいませ」
典子の見つけたのは、えぐったように彫られた壁のくぼみで、足元には陶とう枕ちんのように、鍾乳石のかたまりが盛りあがっていて、それがちょうど、腰をやすめるのに適当な高さになっていた。私たちはそこにならんで腰をおろしたが、姉の春代はぐったりとして、その顔色はいよいよ悪い。息づかいさえいかにも切なそうであった。
「姉さん。大丈夫ですか。そんなに無理をして……」
「いいのよ。しばらく休んでいればよくなるわ」
姉は額をもみながら、提灯の明かりに浮きあがったあたりの景色をながめていたが、
「ああ、ここきっと、『天狗の鼻』というところね」
「え、どうして?」
「だって向こうを御覧なさい。『天狗の鼻』のような岩が突き出しているわ」
姉は提灯をたかだかとかかげて、向こうの壁を指さした。
気がつくと、洞窟もそのへんまで来ると急に広くなっているのだが、姉の指さす向こうの壁のくぼみから、太い岩の棒が、なるほど天狗の鼻のように突出している。しかもその壁のくぼみに刻まれた、鍾乳石の彫刻がちょうど天狗の面のような亀き裂れつを示していた。
「なるほど、そういえばあの壁は、そっくり天狗の面のような格好をしていますね」
「そうよ、だからここがきっと、天狗の鼻にちがいないわ、ほら、この地図にもそう書いてあります」
姉がひろげてみせた毛筆書きの、地下迷路の地図には、次のように、三つの地名が書きこんである。「猿の腰掛」「天狗の鼻」「木こ霊だまの辻つじ」──そして、そこには私の地図と同じように、三首の歌が書き記してあるのだった。
麻の葉の乱れ乱れていくみちの一里塚こそ猿の腰掛
あまかける天狗の鼻に憩いなば木霊の辻に耳傾けよ
六道の鬼と仏のわかれ路よ木霊の辻を心してゆけ