危機を孕はらんで
小梅様の死によって、私の立場がいよいよむずかしくなってきたことはいうまでもあるまい。むろん私に、小梅様を殺さねばならぬ動機などあろうはずはないが、それは私自身の言いぐさであって、世間のひとにはまた別の考えかたがあったであろう。
それに幾度もいうとおり、この事件では動機なんてどうでもよいのではないか。祖父の丑松にはじまるこの一連の殺人事件に、いったい、どのような動機が考えられようか。動機のない殺人、意味のない殺人、てんでんばらばらの殺人事件……まるで馬鹿か気ちがいの仕業としか思えないではないか。そして、馬鹿か気ちがいの仕業となると、村人の疑惑がいっせいに、私の上に注がれるのもやむをえないことなのだ。なぜといって私の体内には、三十二人殺しという凶悪無残な犯罪者の血が流れているのだから。
だからあのとき、私以上に有力な容疑者が現われてくれなかったら、私はきっと捕らえられて留置場へぶちこまれていたにちがいない。そしてそのまま、犯人にしたてられていたかもしれないのだ。
私よりもっと有力な容疑者──それはこうだ。
「鬼火の淵」に浮かんでいた小梅様の死体を崖の上にひきあげると、すぐに二人の刑事が外界へとってかえし、ひとりは疎開医者の新居先生を、ひとりは提灯だのカンテラだの、その他さまざまな照明用具を持ってひきかえしてきた。そして「鬼火の淵」は天地開闢てんちかいびゃく以来の照明を浴び、それらの光のもとで、検屍だの、現場捜査だのが行なわれたのである。
私はいまでも、そのときの情景を思い浮かべることができるが、「鬼火の淵」は思ったよりも広かった。私たちの立っているところが、ちょうど袋の底のように、淵の行きどまりになっていて、左方に高い岩壁が天井まで突っ立っている。天井まで八メートルくらい。そしてその岩壁の途中に、狭い桟さん道どうがついていて、それをつたって行けば向こう岸へ行かれるらしい。向こう岸までは三十メートルくらい。
さて、そこを袋の底として、鬼火の淵は右手へ長くつづいている。金田一耕助は懐中電燈を照らしながら、そのほうへ步いていったが、間もなくかえってきての報告によると、そこから右へ行くにしたがって、天井がひくくなり、三百メートルほど行ったところで、崖と天井がくっついて、淵の水は地下へもぐっているという。つまりそこは伏せたお椀わんのまんなかに、仕切りの壁を立てたようなもので、この地下道の中でも、いちばん天井の高いところに当たっているらしいのだ。
さて、新居先生の検屍は、そう長くはかからなかった。小梅様はしめ殺されたのち、「鬼火の淵」の崖の上から投げ落とされたらしいという。なにしろ年老いて、猿のようにしなびていた小梅様のことだから、だれが犯人にしろ、それは赤子の手をねじるよりも、容易な仕事だったにちがいない。
さて、一方、磯川警部と二人の部下は、現場付近を調べていたが、そのうちに刑事の一人が、重大な証拠を発見したのである。
「警部さん、崖の下にこんなものが落ちていましたが……」
それは鼠色の地に、粗い碁ご盤ばん縞じまのある鳥打帽だったが、私はそれをひと眼見ると、思わずあっと叫び声をあげた。その声に、磯川警部がジロリと振り返ると、
「辰弥さん、あんたはこの帽子を御存じかね」
「はあ、あの……」
私が躊躇ちゅうちょしているところへ、金田一耕助がやってきて、警部の手から鳥打帽を受け取ると、と見こう見していたが、
「ああ、これは久野先生の帽子ですね。辰弥さん、そうじゃありませんか」
「ええ、そうじゃないかと思うんですが……」
「そうですよ。たしかにそうですよ。新居先生、あなた見覚えはありませんか」
新居先生はさすがに言葉をにごしたが、その顔色には明らかな肯定があった。私たちは思わず顔を見合わせた。
「すると、なにかな。久野先生はこの地下道にかくれているのかな」
「そうでしょう、きっと。だから警部さん、ぼくはまえからどうしても、一度このへんの鍾乳洞をさぐってみる必要があるといってるんです。おや、ここに何かある」
金田一耕助は帽子の汗皮の裏から何やらさぐり出した。それは小さな紙片のようなものだったが、耕助はそれをカンテラの灯に照らしてみて、突然、鋭く口笛を吹いた。
「金田一さん、ど、どうしたんです。何かありましたかな」
「警部さん、御覧なさい。いつかのやつのつづきですよ。ほら、辰弥君が梅幸尼の死体のそばで発見した……」
私もあとで見せてもらったが、ああ、違いない。それこそ梅幸尼の枕元で、私が発見した、あの奇妙なメモのつづきなのだ。幅五分くらいの、短たん冊ざく型がたに切りぬいた小さな紙片だったが、いつかのポケット日記と同じ紙で、しかも同じ万年筆の筆跡で、
双 児 小竹様
小梅様
と、書いてあり、小竹様の名前のうえには、さっと赤インキで棒が引いてあったのだ。
「ふうむ」
警部は太いうめき声をもらすと、
「金田一さん、これはやっぱり久野先生の筆跡らしいね」
「そうです、そうです」
「しかし、どうしたんだろう。辰弥君の話によると、そこに死んでるのは、小梅様だというのに、ここでは小竹様の名前が抹殺してある」