「やっこさん、灯をつけるわけにもいくめえから、暗がりの中を手さぐりで逃げてやがんだよ。それだとするとひまがかかるぜ」
「ふむ、これは鉄のいうとおりかもしれねえな。それじゃここらで待ち伏せするか」
話し声から判断すると、三人づれらしいのが、「天狗の鼻」の下まで来ると立ち止まった。どうやらここで待ち伏せするらしい。
私は気が気でなかった。もしここへあとからの連中がやってきたらどうだろう。かれらはきっとこのあたりをすみからすみまでさがすにちがいない。そしてそんな場合、だれしも一番に眼をつけるのは天狗の鼻であろう。
「爺とっつぁん、天狗の鼻とはよくいったものだな。まったくよくできてやがる」
下で話している声がきこえる。
「ほんにな。しかもあれが自然にできたというんだから不思議なもんだ。もっとも壁の眼や口は、人が彫ったということだが……」
「爺とっつぁん、あの鼻の上は大丈夫かな。あんなとこへかくれているんじゃ……」
第三の声がそういったときには、それこそ私は生命のちぢむ思いであった。しかし、幸い年とし嵩かさなのが、
「馬鹿なことをいっちゃいけねえ、ほら」
と、松明をかかげたらしく、洞窟の天井にゆらゆら灯影がゆれて、
「だれかいるとしたら見えねはずはねえ。信さん、つまらねえことはいわねえものだ」
私はほっと胸なでおろし、改めて天狗の鼻のこのくぼみに感謝せずにはいられなかった。三人はそこに腰をおろすとたばこを吸いながら雑談をはじめたが、そのうちに話題が、今夜のことにふれてきたので、私は思わず聞き耳を立てた。
「鉄、おまえはそういうがな。それじゃ、二十六年まえのようなことが、もう一度村に起こってもかまわねえというのか」
そういう声にどこか聞き覚えがあったので、私はおやと思っておそるおそる天狗の鼻からのぞいてみた。見るといつか私たちが英泉さんに出会ったとき、身をかくしたあのくぼみに、三人の男が鼎かなえになって座っていたが、私はその中の一人に見覚えがあった。それははじめて私がこの村へ、足を踏み入れたとき、バスでいっしょになった博ばく労ろうの吉蔵であった。
吉蔵の言葉に相手はもぐもぐいったが、それはよく聞きとれなかった。吉蔵は少し調子を強めて、
「鉄、おまえはあのとき幾つだった。三つ……? それじゃあのときの恐ろしさを、覚えてねえのも無理はねえ。まあ、聞け、おれはあのとき二十三でよ、嬶かかをもらってふた月め、互いにそろそろ味がわかりはじめて、うれしい最中よ。嬶は六つ年下の十七だった。死ぬ子はみめよしでいうんじゃねえが、そりゃかわいい女で、吉つぁんには過ぎものだといわれていたもんだ。それがおまえ……」
吉蔵の言葉が激して、
「あの晚、ズドンと一発よ。なんの恨みもねえものを、野郎、虫ケラみたいに殺しゃあがった。あのときのことを思うと、おらあいまでも腹が煮えくりかえる」
吉蔵の声が無気味に洞窟に反響する。私はゾッと冷たい風に吹かれる感じであった。
「そりゃあ、あのとき親しん戚せきをやられた人はそんな気がするだろうが、しかし、爺つぁん、それかといって何もこんな大騒ぎして、あの若僧を追っかけまわすことはねえと思うんだが……警察の旦那にまかせておいちゃいけねえのか」
鉄の言葉に吉蔵はフフンとせせら笑って、
「鉄、てめえ若えくせに、いやに警察御信心なんだな。だが、よく聞け。警察なんてものは当てにならねえもんだ。二十六年まえのあのときだって、要蔵のやつはひと晚あばれまわったんだぜ。警察の連中がもっと早く駆けつけてくれたら、死人やけが人は半分ですんだんだ。それがどうだ。あいつらのやってきたなあ、何もかも終わったあとで、要蔵がとっくの昔に山へ逃げこんだあとだった。なあ、警察のやることは万事この調子よ。あいつらは万事終わってから、のこのこやってくるんだ。そんなものを頼りにしていられるかい。わが身がかわいいと思えば、自分で自分を守らなきゃならねえんだ」
「だって、爺つぁん、あの若僧をほうっておいたところで、なにも二十六年まえのようなことが起こるとは限るめえ」
「おめえ、それを保障するか。起こらねえと保障できるか。それじゃ現にこのあいだから起こってる事件はどういうんだ。二十六年まえの一件以来、人殺しなんて一度もなかったこの村に、あの若僧がきて以来、こんなにつぎつぎいやなことが起こるというのはどういうんだ。あいつは悪魔の申し子だ。おらバスの中で出会ったときからそう思っていたんだ。あのときひと思いに殴り殺してやるんだった」
吉蔵のギリギリ歯ぎしりをする音が、錐きりでもみこむように私の神経にくいこんだ。私は鉛をのんだような気持ちである。
「そりゃ、爺つぁんにゃ重なる恨みがあるからな。おめえ濃茶の尼の妙蓮と、よろしくやったっていうじゃねえか」
鉄という若者がひやかすようにいう。それに対して吉蔵の声はいよいよきびしく、
「いけねえか。妙蓮といい仲になったのが悪いか。どうせ割れ鍋なべにトジぶたよ。妙蓮は兎口で半きちがい。こっちは嬶を殺されてからぐれ出して、まともな人間は相手にしてくれねえ男だ。だけどなあ、鉄、よく覚えとけ。男でも女でも、みめ形ばかりで値打ちはわからねえ。寝てからわかる味もあらあ。妙蓮はおれを夢中にしてくれたし、おれもずいぶん妙蓮をかわいがってやったものさ。それを、それを……あの若僧め」
またギリギリと歯ぎしりをする音がする。しばらくしてまた若者が口をひらいた。
「だけど、ほんとにあの若僧が下手人なのかなあ。おれには信じられないなあ」
いままで黙って二人の話を聞いていた、第三の男がそのときはじめて口をひらいた。
「それよ。おれもはなは半信半疑だったんだが、近ごろじゃやっぱりそうだと思うようになった。それというのが……」