闇からの声
「典ちゃん、きみはどうしてこんなところへ来たんだ。こんなところへ何しに来たんだ」
「お兄さまを探しに来たのよ。お兄さま、地下道へ逃げこんだと聞いたから、きっとここへいらっしゃると思って、さっきから待ってたの。でも、よく逃げてこられたわ。あまり遅いので、途中でつかまったんじゃないかと思って、どんなに心配したかしれなかったわ」
「典ちゃん!」
私は胸がせまって思わず強く典子を抱きしめた。
実際、そのときほど、私はひとの情けに飢えていたことはなかったのだ。思いがけないその夜の出来事は、私の心から、人間に対する信頼というものを、根本から奪っていきそうであった。私の恐れたのは、かならずしも肉体的な危険ではない。いやしくも法治国に生きている以上、こんな理不尽なリンチに会うべきはずはないという自信を私は持っていた。そのうちに警察のひとびとがやってきて、かれらを説き伏せて助けてくれるだろうと信じていた。だから肉体的な危険についてはそれほど恐れてはいなかったのだけれど、ただ私の恐ろしかったのはひとの心であった。
こういう騒動が起こったのには、いずれ扇動者があるのだろうが、私の恐れたものはその扇動者よりも、わけもなくそういう扇動にのる村のひとの心であった。いかに扇動者が言葉たくみに扇動したところで、村のひとたちの心の中に、私に対する憎悪の種子がなかったなら、こうまでうまく爆発するはずがない。それほど私は村のひとたちから、憎まれていたのであろうか。……そう考えると、私はなんともいえぬほど心細くなり、はかなくなるのであった。
それともうひとつ、私の心を暗くしたのは、さっき聞いた美也子のうわさである。どういう理由で、美也子が私を疑いはじめたのか知らないけれど、以前あれほど私を信じ、私をはげましてくれた美也子だけに、思いがけないその変心は、いまさらのように人の心の頼りなさを思わせるのであった。
そういう場合だけに、私は典子の親切が、この上もなくうれしかった。ありがたかった。しかし、とはいえ、これはこのまま受け入れられるべきものではない。
「典ちゃん、ありがとう、よく来てくれたね。しかしここはきみの来るべきところじゃない。早くお帰り」
「あら、どうして?」
暗闇のこととてよくわからなかったが、典子は例によって無邪気な眼を見はっているらしい。
「村のひとがやってくると、どんなことになるかわからないよ。とばっちりを食ってけがをしちゃつまらない、いまのうちにお帰り」
「あら、それなら大丈夫よ。村のひとたちはこの淵を渡るのをとても怖がるのよ。この淵を渡ると祟たたりがあるという伝説があるんですって。だからここにいれば大丈夫なのよ」
とはいえ、こういう暗闇に、若い女と二人でいることは心苦しかった。
「でも、やっぱり典ちゃんは帰ったほうがいいよ。慎太郎さんが心配するといけないから」
「ううん、いいの。お兄さま、もうしばらく、ここにおいて。そのうちにどうせ一度帰ってこなきゃならないけれど」
「何か用事があるのかい」
「ええ.お兄さまのお弁当を持ってこなきゃ……」
「ぼくの弁当?」
私はびっくりしてきき返した。
「ええ、そうよ。この騒ぎは相当長引くと思うの。そのあいだ何も食べずにはいられないでしょう。だからもうしばらくしたら、一度帰ってお弁当をこさえてくるわ」
「典ちゃん、きみ、どうしてそう思うの。この騒ぎが長引くって……」
「どうしてって、そんな気がするのよ。みんなの意気込みからして……」
「だって、典ちゃん、警察でこんなこと許しておきゃあしないだろ。そのうちに警察の干渉で、解散になると思うんだけど」
「お兄さま」
典子が悲しげにいった。
「こんな山奥の村では、警察ってほんとうに無力なものよ。それも、村の一部で事を起こしたというのなら、それに反対なひとを使って説得させるという手もあるけれど、こんどのような村全体が加担しているような場合、警察がうっかり手を出すと、かえって事が大きくなるの。だから結局、警察は手をつかねて見ているより手がないと思うのよ。いつかの水げんかのときだってそうでしたもの」
私は急に心細くなってきた。
「典ちゃん、それじゃ今夜の騒ぎにゃ、村全体が加担しているというのかい」
「ええ、うちみたいな疎開者は別だけど……でもね、お兄さま、みんながみんな、お兄さまを憎んでるってわけじゃないのよ。ただ、二十六年まえのことをいわれると、みんな加担せずにはいられないのよ。四十以上の人にとっては、二十六年まえの大騒動は、いまでも昨夜の悪夢と同じなのよ。だから、もう一度あんなことが起こるぞといわれると、どんなことでもやりかねないのよ。そこをうまくだれかが焚たきつけたので、パッと火の手が燃えあがったのね」
「いったいだれが焚きつけたんだろう」
「さあ」
「まえからこんな心配はあったの」