「あたしはちっとも気がつかなかった。だからこの計画は村の西側で起こったのよ、きっと。だって周さんと吉蔵とが大将株だという話ですもの」
「周さんてだれ?」
「西屋の若者頭わかものがしらよ。なんでもこのまえの騒動のとき、お嫁さんと子どもが殺されたんですって」
それを聞いて、私はふっと怪しい胸騒ぎをおぼえた。
「西屋の若者頭だって? 典ちゃん、それじゃ、ひょっとすると西屋の主人が、この騒ぎの後押しをしてるんじゃあるまいか」
「まさか……ただ、騒ぎもこう大きくなると、村長だろうと西屋の主人だろうと、どうすることもできないのね」
私はいよいよ心細くなってきた。
「典ちゃん、それじゃぼくはどうすればいいんだ」
「だから持久戦よ。あのひとたちの熱のさめるのを待ってるのよ。いまはみんないきり立ってるから、だれがなんといったってだめ。余計なことをすれば、火に油をそそぐようなものよ。だけど、そのうちにだんだん熱がさめていくわ。おだてに乗って、竹槍やりなんか振り回してるのが馬鹿らしくなってくるわ。だから、それまで待つのよ」
「竹槍なんか振り回しているのかい」
「ええ、でもみんなから元気よ。いちばん気をつけなきゃならないのは、博労の吉蔵というひと。あなたを見つけたら殴り殺してやるって、太い棍棒を振り回してるんですって。吉蔵ならやりかねまいという話だから気をつけてね」
さっき松明の光で見た、吉蔵の凶悪な顔を思い出すと、私はゾッと背筋が冷たくなった。そうすると、私は危ないところで命拾いをしたのであろうか。
私は黙りこんでしまった。心が重くなって、口をきくのも大儀になった。しばらくすると、典子の冷たい手が、闇のなかを手さぐりで、私の両の頬ほっぺたを押さえた。
「お兄さま、何を考えてらっしゃるの。何も心配することはないのよ。ここに隠れていらっしゃればいいのよ。だれもあの淵を渡ってきやしないわ。周さんだって、吉蔵だって、ああいう乱暴なひとにかぎって迷信ぶかいものなのよ。だからここにいれば大丈夫よ。食べ物はあたしが運んでくるしさ。あたしね、だれも知らない抜け道を見つけたのよ。その代わり兎うさぎの穴みたい。だから、ほら、あたしこんな風をしているでしょ」
なるほど触ってみると、典子は戦時の防空服のような、かいがいしい服装をしていた。
「だから、二日でも三日でも、向こうがいやになってやめてしまうまで籠城ろうじょうするのよ。負けちゃだめよ。あくまでがんばるのよ」
私はこのときほど、典子をたのもしく思ったことはない。彼女はおよそ、悲観という文字を知らぬもののように元気で楽天的であった。
典子のようなか弱な体に、どうしてこんな強い魂が宿るのかと、不思議でたまらなかったくらいである。
「ありがとう、典ちゃん、万事きみにまかせるよ」
「いいわ、引き受けたわ。だから心配しないで……あっ、来たわ!」
私たちは反射的に身をひるがえすと、かたわらの洞窟の中へとびこんだ。と、ほとんど同時に、わっという喚声とともに、「鬼火の淵」の向こう岸が、燃えあがるように明るくなった。追っ手の連中が駆けつけてきたのである。かれらもどうやら、私が淵を渡ったことに気がついたらしく、地じ団だん駄だふんでくやしがりながら、こちらにむかってしきりに口ぎたなくののしった。
典子は私の腕を強くつかんで、
「相手になっちゃだめよ。あなたがここにいるって確信はないのだから」
私はむろん相手になる気はなかった。
「ほら、御覧なさい。松明をもって、いちばんとっさきにいるのが西屋の若者頭の周さんよ。それから周さんの後にいるのが博労の吉蔵」
周さんというのは六十くらいの白髪の老ろう爺やで、松明の光で見るせいか、しわの深い、眼玉のギロリとしたあから顔は、とんと芝居に出てくる矢や口ぐちの頓とん兵べ衛えだ。吉蔵はなるほど、太い棍棒をさげている。
しかし、典子のいうとおり、だれひとり淵を渡ってくる者はなかった。かれらは地団駄ふんでくやしがりながら、向こう岸から一時間あまりも毒づいていたが、そのうちに、どう相談がまとまったものか、二、三人の張り番を残して、ほかの連中はひきあげていった。
「そうれ、ごらんなさい。やっぱりあたしのいうとおりでしょう」
向こう岸に残った連中は、カンテラを取りまいて腰をおろし、はじめのうち流行歌を歌ったり、合間合間にこっちへ向かって毒づいたりしていたが、そのうちにだんだん静かになったと思うと、やがてピタリと話し声もやんでしまった。どうやら眠ったらしいのである。
それを見ると気がゆるんだせいか、私も急に睡魔に襲われ、いつか典子の膝を枕に、深い眠りに落ちたのであった。
それからいったい、どのくらい眠ったのであろうか。寝苦しい夢を見つづけていた私は、夢の中で自分の名を呼ぶ声を聞いて、はっと眼をさました。
「辰弥さーん!」
夢の中で聞いた声は、まだ闇の中でつづいている。
「辰弥さーん、助けてえ……」
一瞬、私はまだ夢を見つづけているのであろうかといぶかったが、それは夢ではなかった。闇のかなたからたしかに私の名を呼ぶ声が聞こえるのである。
私はハッと起き直ると、
「典ちゃん、典ちゃん」
と、低い声で呼んでみたが、典子の返事はなく、おそるおそる懐中電燈をつけて見たが、典子の姿はどこにもなかった。腕時計を見ると時計は十時二十分、おそらく一夜明けたのであろう。
そのとき、また闇の中から私の名を呼ぶ声が聞こえてきた。
「辰弥さん、辰弥さん、どこにいるの。助けてえ、助けてえ。ああ、あたし、殺されるウ……」
私はやっとハッキリ眼がさめると、はじかれたように洞窟の外へとび出した。
見張りをしていた連中も、すでに引き上げたとみえて、「鬼火の淵」の向こう岸は真っ暗だった。その暗闇の向こうから、
「辰弥さん……」
と、遠くなり、近くなりして聞こえてくる声を聞いたとたん、私は全身に総毛立つような恐怖をおぼえた。
ああ、その声! それは姉の春代ではないか。