第七章 木こ霊だまの辻つじの恐怖
私はちょっとためらったが、それはけっして臆病おくびょう風に吹かれたからではない。なにごとが起こったのかわからなかったからだ。しかし、つぎの瞬間、またしても、
「辰弥さーん!」
と、悲しげに救いを求める声を聞いたとき、私の心はすぐにきまった。姉が助けを求めているのだ。どんな危険を冒しても行かねばならぬ。私は懐中電燈をポケットにしまうと、すぐに、桟道にとりついた。渡りなれてしまえばこの桟道も、それほど危険とは思えない。
桟道の途中まで来たとき、またしても姉の声が聞こえた。こんどはよほどハッキリしていたが、その声はひとところにとどまっているのではなくて、洞窟の中を走りまわっているらしいのである。
だれかが姉を追いまわしている!……そう考えると、私はなんともいえぬ恐ろしさがこみあげてきた。姉を追っかけている人物の恐ろしさもさることながら、私は姉の健康を気遣ったのである。
医者は姉に、できるだけ安静にするようにと命じている。ちょっとの興奮、ちょっとの運動も、姉の心臓にはさわるのである。そうでなくとも昨夜の騒動が、体にさわりはしなかったかと気遣っていたやさきだ。私は夢中で桟道を渡ると、
「姉さん、姉さん、姉さん、どこにいるのです!」
と、危険も忘れて叫んだがそのときだった。あの異様な声と音響が、おどろおどろしく聞こえてきたのは。
「辰弥さーん!……」
「辰弥さーん!……」
「助けてえ……」
「助けてえ……」
と、姉の叫びのひと声ごとが、繰り返しとなって聞こえてくるのだ。そして、それにまじって闇の中を駆けめぐり、こけつまろびつする気配が、異様な、拡大された音響となって伝わってくるのである。
ああ、姉は──姉とその襲撃者とは、「木霊の辻」の中にいるのだ。
「姉さん、姉さん、いま行きます。しっかりしてください。いま行きます」
私は叫びながら夢中になって駆け出した。もうだれも怖くはなかった。周さんだろうが吉蔵だろうが、だれでも来いと懐中電燈をふりかざした。
私の声がとどいたのか、
「ああ、辰弥さん、早く来てえ!」
いままであてどもなく呼んでいた声は、急に希望と活気が加わって、逃げまわる音、救いを求める声はいよいよ明瞭になってくる。私は夢中で走るのだが、おお、なんとそれはじれったいことか!
「木霊の辻」は羊腸と曲がりくねっていて、救いを呼ぶ声はすぐ近く聞こえながら、なかなかそこへ行きつくことのできぬもどかしさ。しかも、姉とその襲撃者の一挙手一投足が、拡大された音響となって、手にとるように聞こえてくるのだから、それこそ搾しめ木ぎにかけて、全身の膏あぶらをしぼられるような感じであった。
「姉さん、姉さん、大丈夫ですか。相手はいったい、どんなやつです」
私は走りながら叫んだ。
「ああ、辰弥さん、早く来て……どんなひとだかわからないの。真っ暗だからわからないの。ひとことも口をきかないからわからないの。でも……でも……このひと、あたしを殺すつもりなのよ。ああ、辰……辰弥さん!」
私はギョッとして立ちどまった。一瞬、シーンと静かになったが、突然、
「キャーッ!」
という悲鳴が聞こえたかと思うと、土を蹴ける音。しかし、それもほんのわずかの間で、やがてどたりと何かが倒れるような音がしたかと思うと、ヒタヒタと忍び足に逃げていく音が、かすかな反響をともなって遠ざかっていき、やがてバッタリ聞こえなくなった。あとは死の静けさなのである。
私は頭から水をぶっかけられたような恐ろしさに、身じろぎもせずに立ちすくんだ。意気地のない話だけれど、歯がガチガチと鳴って、膝頭がガクガクふるえた。しかし、すぐ気を取り直して大急ぎで駆け出した。
私が暗闇の中に倒れている、姉の姿を発見したのは、それから間もなくのことである。
「姉さん、姉さん」
私は急いで姉を抱きおこしたが、そのとたん、世にも異様なものが姉の胸につっ立っているのに、思わず眼を見はった。それは鍾乳石であった。姉はそこらいちめんにぶらさがっている、鍾乳石のかけらで刺されているのであった。
「姉さん、姉さん」
私は夢中でまた叫んだ。すると姉はまだ死にきっていなかったとみえて、薄白くにごった眼を見開いた。そして私の顔のあたりを見つめていたが、やがてかすかにのどを鳴らすと、
「辰弥さん……」
と、つぶやくようにいった。
「ええ、そうです。ぼくです。姉さん、しっかりしてください」
私が体を抱きしめると、まっ白な姉の顔に、ごくかすかながら微笑の影がさした。
「いいえ、もうだめ。その傷よりも心臓が……」
姉は苦しげに身をもみながら、