「ありがとう、ありがとう。これもみんなきみのおかげだよ。きみというひとが毎日やってきてくれなかったら、毎日やってきて外の情報をつたえてくれなかったら、ぼくはきっとこの暗闇のなかで、恐怖と不安で気が狂っていたろうよ。いやいや、気が狂うまえにここをとび出していって、吉蔵のやつに撲殺されていたかもしれない。あいつはほんとうにぼくを殺す気なんだからね。ありがとう、ありがとう、典ちゃん」
「お兄さま、うれしいわ」
私の胸の中で典子の体が、小鳥のようにふるえていた。典子のしなやかな腕は、いつか私の首にまきつき、私たちはどちらからともなくくちびるを重ねていた。……
それから後のことを私はよく覚えていない。突然、はげしい衝動のあらしが、私たちを押しころばしたのだ。闇が私たちの羞恥しゅうち心を奪った。私たちは汗ばみ、あえぎ、身をもだえ、息もたえだえになるまでからみあって離れなかった。やがて、桃色の美しい霧が二人の体をつつんだ。
「お兄さま」
よほどたってから、典子は私の腕から身をひくと、おくれ毛をかきあげながら、うっとりとした眼で私の顔を見上げた。懐中電燈の光のなかで、羞はじらいをおびて上気した頬がかわいかった。
「なあに、典ちゃん」
私はまだ夢を追うている気持ちだったが、典子はすでに現実の世界にもどっていた。
「あの小指のことね。あれはどういう意味ですの。左の小指に傷のあるひとって……」
「典ちゃん」
私は思わず呼吸をはずませると、
「見つかったのかい、そういうやつが。いったい、だれだ。だれだ、そいつは!」
「いいえ、まだハッキリとわからないけれど……でも、お兄さま、いったいそれはどういう意味ですの。小指の傷って……」
私はちょっとためらったが、私がそれをいわないかぎり、典子は口を割りそうにもないので、とうとう思い切って、姉の言葉をうちあけた。
「だからね、左の小指に噛まれた傷のあるやつこそ、こんどの事件の犯人なんだ。少なくとも、姉を殺した犯人なのだ。だから、典ちゃん、いってくれ。いったいそれはだれなんだ」
はげしい怯おびえが、たとえようのない恐怖の色が、すさまじいまでに典子の顔をゆがめた。何か叫ぼうとして口をひらいたが、叫び声は凍りついたように外へ出なかった。やがて顔色が土色に朽くちていき、くちびるがカサカサに乾いてきたかと思うと、瞳ひとみがガラスのように光を失った。
「典ちゃん」
私はびっくりして典子の肩に両手をかけた。
「ど、どうしたんだ。しっかりおし!」
私に肩をゆすぶられて、典子の首は二、三度ぐらぐらゆれたが、つぎの瞬間、私の胸に顔を埋めると、典子はわっと泣き出した。
「典ちゃん、ど、どうしたんだ。きみは知ってるんだね。姉さんを殺したやつを知ってるんだね。いったい、だれだ、そいつは……」
典子は私の胸の中で激しくいやいやをした。
「お兄さま、聞かないで、聞かないで。あたしにはとてもいえない。あんまり恐ろしくてとてもいえない。お兄さま、聞かないで……」
私の胸にはふいと疑いがきざしてきた。
「典ちゃん、どうしたんだ。なぜいえないんだ。ひょっとするとそれは慎太郎さんじゃ……」
「な、なんですって!」
典子が叫んで、はじかれたように身をひいた。その瞬間だった。
「あ、あんなところにいやあがる!」
割れ鐘のような声が私たちの耳じ朶だをうった。
私たちはギョッとして、そのほうをふりかえったが、そこに立っているのはまぎれもなく、博労の吉蔵だった。吉蔵は片手に松明、片手に棍棒をひっさげて、洞窟の入り口からのっしのっしと近づいてくる。松明の油煙が濛もう々もうと洞窟の天井をこがし、パチパチと松の皮がはじけてとび散る火の粉を、全身にあびて近づいてくる吉蔵の形相は、地獄の鬼よりもものすごかった。
しびれるような恐怖が全身を硬直させ、私は馬鹿みたいにそこにすくんでいた。