第八章 絶体絶命
「お兄さま、逃げて!」
突然、声をかけてとびあがったのは典子だった。その声が私の麻ま痺ひ状態に活をいれたのだった。私もぴょこんととびあがると、一目散に洞窟の奥へ走り出した。
「お兄さま、これを、これを」
追いすがりざま、典子が何かを握らせた。懐中電燈だった。
「ありがとう、典ちゃん」
しばらく夢中で走っていたが、途中で私はふと気がついて、
「典ちゃん、きみはお帰り。吉蔵はまさかきみまで殺しゃあしないだろ」
「だめよ、お兄さま」
典子があえぎながら答えた。
「お兄さまはあの眼つきに気がつかないの。吉蔵はお兄さまを殺すつもりなのよ。そして、それを知っているわたしだって生かしちゃおかないわ」
「典ちゃん、すまない、きみまでこんな危険な立場におとしいれて……」
「いいのよ、いいのよ。それより早く逃げましょう、ああ、もう、あそこへ来たわ」
この場合、吉蔵よりもわれわれのほうが有利だったのは、たとえ一度きりにせよ、私たちがこの道を、通ったことがあることだった。
それだけに足元もたしかで、吉蔵がおりおりつまずいたり、よろめいたりするのに反して、私たちは自信をもって走ることができた。だから吉蔵とわれわれの距離はしだいに大きくなっていった。それに反して、われわれにとって不利だったことは、懐中電燈を消すわけにいかないこと。懐中電燈を消しては、危なくてとても走れない。そしてその光が、吉蔵の追跡の目標をあたえるのである。
しだいにひろがっていく距離に気をいらだって、吉蔵がうしろからさまざまな罵ば詈り雑言をあびせかける。そのひとことひとことに、私は鞭むちでうたれるように、身内がすくむ思いがした。私たちはただ逃げるよりほかはなかった。昨日ひいておいた糸をたよりに、私たちはひた走りに走った。そして間もなく、第一の糸巻きをむすびつけてあるところまでたどりついた。
「助かったわ。お兄さま」
典子が叫んで鍾乳石から糸巻きをはずした。
「この糸をまきながら逃げていけば、吉蔵には道がわからなくなってしまうわ。そして、こっちの洞窟は、あんなに複雑にできているのだから、きっとわき道へ迷いこんでしまうわ。そのあいだにわたしたちは、『鬼火の淵』から逃げましょう」
そのとおりだと私も思い、いくらか胸もやすまったが、安心するにはまだ早かったのだ。それから、ものの二、三十間と步まぬうちに目くるめくような光をさっとまともから浴びせられ、私はあっと立ちすくんだ。
「あっはっは、いやあがった、いやあがった。話し声がするようだと思って待っていたら、やっぱりここにいやあがった。だが、連れはだれだ」
光が私からずれて典子を照らした。
「なあんだ、里村の典子じゃねえか、それじゃてめえたち、こんなところで乳繰りあっていやあがったのか。あっはっは、ちょうどいいや。おい、若僧」
光がまた私のほうへもどってきて、
「てめえひとりじゃ寂しかろう。冥めい途どの道づれをこしらえてやるぜ」
それは西屋の若者頭周さんだった。周さんは白髪頭に向こう鉢はち巻きで、片手につるはし、片手に龕燈提灯がんどうちょうちんをひっさげていた。瞳ひとみが殺人鬼の殺気をおびてかがやいている。私はそのつるはしが脳天につっ立つときの幻想をえがいて、身も心もしびれるようだった。
周さんが一步近づいた。しかし、私は動くことができなかった。周さんがまた一步前進した。私はやっぱり動けなかった。だが、このときである。突然、典子が何やら叫ぶとひらりと、右手をふった。その刹せつ那な、周さんの顔に何やらあたって、細かいものがパッとあたりに飛び散った。周さんはつるはしをとり落とし、あっと片手で顔をおさえた。
「お兄さま、この間に!」
典子が腕をとらえたので、私はやっとわれにかえった。私たちは手をとって、ふたたび洞窟の奥へ走りだした。
このとき典子の使った目つぶしについて、彼女はのちにこう語った。
「お兄さまのところへ忍んでくるとき、つかまっちゃ困ると思って、卵の殻からに灰を入れたのを、いつも二つ三つ用意していたの。でも、あんな悪いやつに使うのだったら、灰じゃ物足りなかったわね。唐がらしでも入れておいてやればよかった」
それはさておき、私たちはふたたび第四の洞窟と、第五の洞窟の合流点まで引き返したが第五の洞窟へ入るわけにはいかなかった。そこからは吉蔵がやってくるのである。
「しかたがないわ。お兄さま、こっちの道へ逃げましょう」
「でも、典ちゃん、そっちの道には何があるかわからないよ。まだ、一度も入ったことがないのだから」
「でも、お兄さま、ここにこうしていて、みすみすあのひとたちに殺されるよりはましでしょう。あっ、お兄さま、来たわ!」
第五の洞窟から、明滅する松明の炎が近づいてきた。それと同時に第四の洞窟から、周さんの怒りにみちた咆ほう哮こうが聞こえてくる。私たちは反射的に身をひるがえして、未知の洞窟へとさまよいこんだ。
ああ、闇!