そこへ、ちょうど
隠居が
通りかかりました。
二人の
女は、おじいさんを
呼び
止めました。
「おじいさん、あんたは、
白い
男をごらんなさったのですか。」と、
一人の
女はたずねました。
「めっそうな、
私が
見たら、いまごろは
破産せんけりゃならん。
白い、
気味の
悪い
目つきをした
男が
見物人の
中に
混じって、じっとしていたということでな。なんでもその
男を
見たものは、みんな
株に
損をしたという
話じゃ。」と、おじいさんはいいました。
ある
日、
街の
四つ
角のところで、
電車と
自動車とが
衝突しました。
自動車はもはや
使用されないまでに
壊され、
電車もまた
脱線して、しばらくは、そのあたりは
雑踏をきわめたのであります。そして、
怪我人もできましたので、
電車と
自動車の
運転手は、
警察へいってしらべられることになりました。
「どうして、
衝突をしたのだ?」といって、
警官がききますと、
自動車の
運転手は、そのときのことを
思い
浮かべるような
目つきをして、
「
晩方でありました。
両側には、
燈火のついたころあいです。
電車の
停留場には、たくさん
人が
立っていました。
私は
注意をして、それらの
人たちを
避けながら
走っていますと、
目の
先へ、
小さな
白い
着物を
着たおじいさんが、ちょこちょこと
出てきたから、
私はとっさのことですし、たいそう
狼狽しました。その
前まで、そんな
老人が
歩いていることに
気づかなかったのです。
私はひくまいと
思って、
全速力で
脇の
方へそれますと、そのとたんにやってきた
電車と
衝突したのでした。」と
申しました。
「その
着物を
着た
老人はどうしたか?」と、
警官はききました。
「
不思議にも、その
間に
老人の
姿は
消えたように、どこへいってしまったものか
見えなくなりました。」と、
運転手は
答えました。
「おまえの
見た、
白い
着物を
着た
老人というのは、
大男ではなく
小さかったのか?」
警官は、これまで、
大きな
白い
男が、
影のように
線路の
上に
立って、
幾たびか
汽車を
脱線さしたり、また
止めたりしたといううわさを
聞いていましたから、いま
小さな
白い
男だと
聞いて、
異様に
感じたからであります。
「
私たちの
見たのは、
白い
小さなおじいさんでした。」と、
両方の
運転手は、はっきりと
答えました。
「いつ、そんなに
小さくなったのか?」と、
警官は、くびをかしげました。
「そのことは、
私たちに、わかりません。」と、
運転手は、おそるおそる
答えました。
この
白い
影が、この
町に
入ってきたことは、どんなにみんなの
生活の
上に
不安を
与えたでありましょう。ほんとうに、ペストや、コレラが
入ってきたよりもおそろしい、
防禦のできない
事実であったからであります。
しかし、
白い
影が、ある
人の
目に
見えて、ある
人の
目に
見えないという
理由はない。それを
見る
人は、
気候の
関係で、また
神経衰弱にかかったからではなかろうかというような
解釈をした
人がありましたが、
実際において、
気づく
人と
気づかない
人との
相違があるということに、ほぼ
輿論はきまったのであります。
そして、いちばん
困ったことには、なにか
自分の
不注意で、
失敗をしたものが、
白い
影を
見たからといって、ほんとうは、
見もしないのに、すべての
過失を
白い
影に
帰してしまったことでありました。
「
白い
影をつかまえることにしよう。」
町の
人々は、こう
話をきめたのであります。そして、その
正体を
見とどけようと
思いました。
まだ
暑い、
夏の
時分、
野原を
白い
男がさまよっているときは、
大きな
雲つくばかりの
体でのそりのそりと、
真昼の
線路を
歩いたものであるが、
街に
入ってからは、
小男となって、
晩方から
夜にかけて、
多く
人混みの
中に
出かけるようになりました。それで、
捕らえることは
困難であったのです。しかし、だんだん
白地の
浴衣を
着る
人が
少なくなって、みんな
人々が
黒っぽい
着物を
着るようになってから、一
方では、やっと
白い
影を
捜すのに
都合がよくなりました。
幾日かたちましたけれど、まだ、
白い
男を
捕らえたものはありませんでした。なんでも、このごろは、
白い
男は、
月のいい
寒い
晩に、
町の
屋根から、
屋根を
伝わって、
星のように
飛んでいるのを
見たというものが、あちらこちらにありました。
「
地震があるのではなかろうか?」と、一
時は、こんなうわささえしたものがあった。また
夜はなるべく
外に
出ずに、
白い
影を
見ないものと、
早くから
戸を
閉めてしまうような
臆病者も
少なくはなかったのであります。
すると、こんどは、いままでとはまったく
違ったうわさがひろまりはじめました。
「
今年は、いままでにないことだ。
暴風もこず、
米はよくできて
豊年だ。
昔の
人の
話に、
白い
影が
入ってきた
年は
豊年だということだ。」というようなうわさがたちはじめると、
「
大河にかかっている
鉄橋の
根もとが
腐れていたのをこのごろ
発見した。
白い
影が
線路の
上を
歩いていたのは、それを
注意するためだった。」と、いうような
説が、
後から
後からつづいて
起こったのであります。
町の
新聞は、また
白い
影を
科学的に
批評をしていました。ある
理学士は、
白い
男のように
見えたのは、
水蒸気のどうかした
具合で、
人間の
形に
見えたのであろう。
秋から
冬にかけては、
毎夜のごとく、
月のいい
晩には、
白いもやがいろいろの
形で
立ち
上るものだ。また、
夏の
日、
野原で
見た、
白い
大男というのも、おそらく
同一の
現象で、
雲のようなものではなかろうかといって、なんでもなく、それを
解決していました。
最初、
白い
男を
見て、
汽車を
脱線さしたばかりでなく、
自分も
負傷した
運転手は、
神経衰弱から、むだ
目が
見えたのだと
判断されたものの、とにかく
汽車を
脱線さした
責任から
退職させられて、いまでは、
町に
近い
港の
汽船問屋に
勤めていたのであります。
もう
秋も
末のことでありました。
今夜にも、
冬がやってきそうに、
空の
色は
澄んで
海の
色はさえていました。
野原の
中の
林も
色づいて、こずえからは、
黄色い
葉がひとりでにこぼれるように、ほろほろと
落ちていました。また、
街の
並木の
葉は、たいてい
落ちつくしてしまって、
黒い
小枝の
先が
青い
空の
下に
細かく、
網の
目のように
透いて
見えていました。
この
港から、
南洋の
方へゆく
船は、
今夜出てゆくのが
今年じゅうの
最終でありましたが、あまりそれには
乗ってゆく
客もなかったのです。
夕陽は、
岡を
染め
街に
沈みかかっています。そのとき、
汽船の
待合室に、いつかの
運転手は、
一人の
不思議な
女をみとめました。
目の
美しい、
髪のちぢれた
娘が、
燃えるような
赤マントを
着て、たった
一人ベンチに
腰をかけて、
悲しそうな
目つきで、
海の
上をながめていたのです。そして、
娘は、
手の
中に、
小さい
真っ
白なねこを
抱いていました。
人が
近づくと、その
白いねこは
消えたように、マントの
下に
隠れてしまいました。そして、だれもそばにいなくなると、また、
真っ
白なねこは、
娘の
手の
中に
入って
遊んでいたのでした。
「この
町を
騒がした
白い
悪魔は、こいつでなかったか?」と、いつか
負傷した
運転手は、ふと
心に
思いました。そして、
今日、
船に
乗って
沖へ
出ていってしまったら、もうこの
町に
不安はなくなるだろうと
思いました……。はたして、それからは、もう
白い
影を
見たものはありませんでした。