とうげの茶屋(2)
日期:2022-11-27 08:34 点击:294
しかし、このきつねの話は、よほど誠しやかに、伝えられたものとみえ、その翌日だったか、村の助役が、茶屋へ入ってくると、
「おじいさん、わるいきつねが出て、人を騒がすそうだが、ここでは、なにも変わったことはないかね。」と、問いました。
おじいさんは、にこにこしながら、
「あめ屋さんが、ばかされたといいますが。」
「村の女どもも、町からの帰りに、ぶらさげてきた塩ざけをとられたといっている。なんでも、後からついてきて、さらったものらしい。」
「それは、いつのことですか。」
「つい、二、三日前のことで、まだうす暗くなったばかりのころだそうだ。」
そうきくと、おじいさんの目へ、二、三人の若い女れんが、ぺちゃくちゃとしゃべりながら、この家の前を通った、姿が浮かびました。その中の一人は、背にさけをぶらさげていたが、からだをゆすって笑うたびに、さけが、右へ、左へ、ぶらぶらと、振り子のようにうごいて、途中で落ちなければいいがと、こちらから見ていて、思ったのを記憶に呼びもどしました。
「これから、寒くなって、えさがなくなると、どんないたずらをするかしれない。」
助役は、こういって、たばこに、火をつけました。
「どこか、道で落としたのでありませんか。」と、おじいさんは、いいました。
「なに、逃げていくきつねのうしろ姿を見たというから、ほんとうのことだろう。」と、助役は、そう信じていました。
「おじいさん、きつねなんか、まあどうでもいいがね、それより、来年はこの前をバスが通るというじゃないか。」と、助役は、あらたまって、さもおおげさに、いいました。
「バスがで、ございますか。」
「まだ、知らないとみえるな。そうしたら、いままでのように、歩くものがなくなるだろう。」
「歩くものが、なくなりましょうな。そうすれば、もう、この商売もどうなりますか。」
おじいさんは、力なくいいました。
「世の中が、便利になれば、一方に、いいこともあるし、一方には、わるいこともある。しかし、そこは頭の働かせようだ。考えてみさっしゃい。近い他の村から、みんなこの道へ出てくるだろう。バスの停留場が、この家の前にでも着くことに決まったものなら、この店はいくら繁昌するかしれないぜ。」
「そうでございましょうか。」と、おじいさんは、白髪頭をかしげて、あたらしくいれた茶を助役の前へ出しました。助役は茶わんをとり上げながら、
「それも、運動するのはいまのうち、早いほうがいいぜ。」といいました。
「運動するといいましても、なにぶん、この年寄りひとりではどこへも出られません。」と、おじいさんは、かしこまってすわり、ひざの上で、しなびた手をこすっていました。
「なに、おまえさんがその気なら、代わって運動をしてやってもいい。」と、若い助役は、相手の心持ちを読みとろうと、鋭く、おじいさんの顔を見ました。
おじいさんは、心で、どうせそれには金がいるんだろう。いったい、いくらばかりあったら、その望みがかなえられるのかと、もじもじやっていました。
「いま、話をきいて、すぐといっても、分別もつくまいから、おじいさん、よく考えておかっしゃい。」
そう、いいのこすと、助役は店を出ていきました。
おじいさんは、このころから、なにか新しい問題が、身に起こると、しきりに心細さを感じました。それは、年のせいかもしれません。そして、遠くはなれている一人の息子のことを思うのでした。いよいよ、いっしょになって、頼ろうかとも考えるのであります。
おじいさんは、客がいなくなって、ひとりになると、このあいだ、せがれがよこした、手紙を出して、見ていました。それにはそちらは、じき寒くなって雪が降りますが、こちらは冬もあたたかです。父上も、どうかこちらへいらして、親子いっしょにお暮らしくださいませんか。私どもも、まだ子供のないうちに孝行したいと思います、というようなことが書いてありました。たぶん、せがれが、工場の休み時間に書いたものとみえ、工場の用箋が使ってありました。おじいさんは、それらの文字ににじむ、親思いの情をうれしく、ありがたく感じ、手紙をいただくようにして、また仏壇のひきだしへしまいました。長年苦楽を共にした女房が、また、せがれにはやさしかった母が、いまは霊となって、ここにはいり、なにもかもじっと見ている気がして、おじいさんは花生けの水をかえ、かねをたたいて、つつましく手を合わせました。
このとき、人のきたけはいがしました。
「このごろは、めっきり、早く日が暮れるのう。」
そういいながら入ったのは、年とった百姓でありました。
「いま、町のもどりかの。」と、おじいさんは、親しげに迎えました。
百姓は、おじいさんのそばへ寄って、腰を下ろしました。おじいさんのおし出す火鉢にあたって、昔風の太いきせるに火をつけました。
二人は、小学校時代からの友だちでありました。ほかにも仲のよかったものもあったが、早く死んだり、あるいは、この土地にいなくなったりして、この年となるまでつき合いをし、たがいに身の上話を打ち明けるのは、わずかこの二人ぐらいのものであります。
「一本つけるかの。」
「それを、たのしみに、町で飲みたいのを我慢してきたわい。」