どこかに生きながら(2)
日期:2022-11-28 23:41 点击:251
いきかけた母ねこは、ふりむいて、
「きょうは、あとから、いいお天気になるよ。また、遊んであげましょうね。」といいました。
この屋根の下には、どういう人たちが、住んでいるかわからなかったけれど、朝と晩には、若やかに、元気のある話し声や、笑い声がし、昼間は、まったくしんとしているのをみると、若い者たちは、どこへか働きに通勤し、老人が留守をするごとく思われました。たぶん、老人は、一人いるのでしょう、ときどきしゃがれたせき声がきこえ、流しもとで水を流す音がしたのでありました。ほかにいたずらをするような子供がいなかったのは、なによりのしあわせでした。
近傍にある、高いかしの木の落ち葉が、風に飛んできて、といや、ひさしの奥に、たまっていました。おりおり、それらが、龍巻きのごとく、おどり出すことがありますが、二匹のねこは、ひさしのすみの方で、風をさけながら、それをながめていました。
ある日のことでした。太陽のよくあたる屋根の上で、母ねこと子ねこが、きげんよく、からかいあって、遊んでいました。すると、どこからか、
「やせたお母さんの、お乳しかのまないのに、あの子ねこは、よくふとっているのね。」と、いう話し声が、きこえてきました。それは、あちらの高い窓のところで、するのでした。こちらを見ながら、一人の少女が、うしろの妹にいったのです。無心でいるのを、おびやかしてはならぬと、二人は、姿をねこに見られぬようにしていました。少女は、手に持っていた、パンをちぎりました。とつぜん、なにか音がして、ねこのそばへ落ちました。おどろいた母ねこは、背を円くして、不意の来襲者に備えて、身構えをしました。逃げるより、子供を守らなければなりません。四方を見まわしたけれど、敵らしいものの影はなく、落ちたのは、なんと香ばしい、バターのついたパンではありませんか。
「だれが、こんなものを投げたのだろう。」と、疑いながら、母ねこは、高い窓を見上げると、姉妹の少女が、こちらを見て、笑っていました。そのようすで、悪意のないのを悟りはしたけれど、なお母ねこは、油断をせず、餌に近づこうとしませんでした。
「あげたんだから、お食べ。」と、少女が、安心させるように、いいました。子ねこはついに我慢がしきれず、パンに近づきました。母ねこは、それを許すごとく、見ていました。そして、自分は、子供にやるつもりか、食べようとしませんでした。少女が、また、パンをちぎって投げました。
「こんどは、あんたにあげるのよ。」
母ねこは、前に落ちたのを、はじめて、静かに口へ入れたのであります。
冬の間じゅう、二匹のねこは、このあたりの屋根をすみかとし、終日、日当たりをさがして、歩いていました。そのうち、春となるころには、子ねこは、もうだいぶ大きくなっていました。
町裏に、隣組の人々によって、耕された田圃がありました。そこには、黄色の菜の花が咲いていました。他の人には、気を許さなかった子ねこも、かわいがってくれる少女には、なつくようになりました。
そのころ、白い雲のあわただしく走る、空の下で、子ねこは、菜の花にとまろうとする、白い胡蝶を葉蔭にかくれて、ねらっていました。こうして、ふたたび、地上に降りても、いままでのように、母ねこは、後を追おうとせず、なるたけ離れて、気ままに遊ぶ子ねこを見守るというふうでありました。
「もう、じきひとりまえになるのだもの、私は、そうついて歩くまい。」と、いわぬばかりに、目を細くして、子ねこが、うまくちょうをとらえるかどうかと、ながめていました。
これを、またそばから見ていた少女は、子ねこのようすが、あまりかわいらしいので、足音をたてぬよう、うしろへまわり、いきなり抱き上げると、ほおずりをしました。母親は、これも見ていました。そして、このとき、子ねこの行く先を見ぬいたのであろうか、「ニャオ。」と、悲しそうに、一声高くなきました。そして、その声を残して、どこへとなくいってしまいました。それぎり、母ねこの姿を、このあたりで、見なかったのであります。
「お母さん、この子ねこを飼ってちょうだい。」と、姉妹が、いいはったため、ついにその願いが、かなえられたのでした。
その後、子ねこは、雨にさらされることもなく、また飢えのために、眠れぬということもなかったのでした。
「おまえのお母さんは、どこへいったでしょう。おまえは、みんなから、かわいがられてしあわせなんだよ。きっと、どこかに、おまえのお母さんは、いるでしょうに?」
こう、少女は、子ねこに向かって、いうのでした。たとえ、こうして、向かい合っていても、そこには、人間と動物のへだたりがありました。考え方にも、ちがいがあるとみえて、畢竟なにをいっても通じなかったのが、少女には、悲しかったのです。
いよいよ冬が去るのか、あらしの吹き荒んだ夜のことでした。風は、空から、屋根の上を吹きまくり、窓の戸へつき当たりました。じっと、耳をすました子ねこは、急にいらいらしだして、へやじゅうを騒ぎまわり、外へ出ようとしました。
「なんだかようすが変だから、早く出しておやり。」と、お母さんまでが、おっしゃいました。姉のほうの少女が雨戸を細目に開けると、すきまから、烈しい風が、内へ吹き込みました。
「この風の中を、どこへいくの?」と、少女が、いいました。子ねこは、闇の中へ飛び出して、さまよいながら、目に見えぬ影を慕うごとく、悲しい声で、なきつづけました。
「ああ、きっと、母ねこのことを思い出したのだわ。」と、姉と妹は、顔を見合わせました。
あの屋根から、屋根を、子供をつれて歩いていた、やせた母ねこの姿が、二人の目にはっきりと浮かびました。
子ねこは、遠くの方まで、母を捜しにいったとみえ、風のとぎれに、そのなく声が、かすかにきかれました。かつて、寒い、寒い、木枯らしの吹く夜、そして、霜のしんしんと降る夜明け方、母ねこに抱かれて、安らかに眠った、なつかしい記憶が、はしなくも風の音によって、思い起こさせられたのでありましょう。