三
正吉は、
月給の
入った
翌日のこと、
田舎へいく
高橋のために、
送別会を
開くことにしました。
あるレストランで、
高橋と
小原と
自分の三
人が、
夕飯を
食べながら
親しく
話をしたのです。そのレストランは、
大きなきれいな
店でありました。
煖房装置もあれば、
壁にはオゾン
発生機を
備えてあって、たくさんのテーブルには、それぞれ
客が
対い
合っていました。
南洋産の
緑色の
葉の
長い
植物が、
大きな
鉢に
植えられて、すみの
方と、
中央に
置いてありました。
正吉は、
勤めるようになってから、こんな
場所へは、
先輩につれられたり、また
社員たちときたことがあるけれど、
小原も
高橋も、きわめてまれなことだけに、
話の
合間に、
頭を
上げて、あたりを
物珍しそうにながめていました。
話は、
正吉と
高橋の
間で、いつかまたお
母さんのことになったのです。ここでも、
小原だけは、
母の
顔さえよく
覚えていなかったので、
二人の
話を
笑ってきくうちにも、どことなくさびしそうでありました。
「わがままいわなければ、よかったと
思うよ。お
母さんがいなくなってから、わかった。しかし、もう
遅いのだ。よく
無理をいったり、また
頼んでおいたことを
母が
忘れたといって、
小言をいったりしてすまなかった。」と、
正吉はいっていました。
「
僕も、
悪いところでなければ、
母と
妹をつれていくんだけれどなあ。」と、
高橋がいいました。これを
聞いていた、
小原は、
「いいなあ、
君たちが、うらやましいよ。
僕には、そうした
思い
出もない。
小さいときから、
母も
父も、ないのだからね。」と、
鼻をつまらせたのです。
「そう、もうこんな
話はやめよう。」と、
正吉が、いいました。
三
人は、フライだのマカロニだの、いろいろ
食べたり、サイダーや、コーヒーを
飲んだりして、
時計が九
時を
過ぎてから、そこを
引き
上げました。
会計は、
少女の
持ってきた
伝票を
見て、
正吉が、
払ったのであります。
道順で、
高橋が
先に
二人と
別れました。
「
出発の
日には、
送るからね。」
「
会社が、
忙しいなら、いいよ。」
「なに、どうか
都合するさ。」
あとは、
小原と
正吉の
二人が、
星晴れのした
空を、
公園の
方に
向かって
歩いていたのです。
「
今夜は、ご
馳走になって、すまなかった。」と、
小原がいいました。
「なんでもないよ。
今度の
日曜に、
動物園でもいってみない?」と、
正吉が、いうと、
「お
天気だったらね。」と、
小原は、
喜びました。そして、
赤いネオンサインの
方を
見ながら、
「四
月になったら、また
学校へ
上がるつもりだ。」と、このごろ、
体がよくなったので、
小原は、
元気にいいました。
「
学校なんか、すこしくらいおくれたっていいよ、なるたけ
大事にしたまえ。」
二人は、
四つ
辻のところで、また
別れたのです。
先刻から、
正吉の
頭の
中で、もやもやしていたものがあります。それは、レストランの
計算が、ちがっているような
気がしたのでした。なんだかすこし
安すぎるので、
正直な
彼は、そのままにしておけない
気がして、
公園のベンチのところでポケットから、
手帳と
鉛筆を
取り
出して
計算をはじめました。
頭の
中では、うまくいかなかったのです。
「ああ、やはりサイダー二
本がつけ
落ちになっている。これは、あの
少女の
損になるのだろうか。」
正吉が、
食べ
物や
飲み
物を
運んできた、
目の
星のように
清らかな、
白いエプロンをかけた
少女の
姿を
思い
浮かべました。
彼は
急いで
街へひきかえしました。そして、
時計を
見ると、もう十
時を
過ぎています。
「いつのまに、こんなに
早く
時間がたったろう。」と、つぶやきながら、
例のレストランの
前へくると、もう
店は
閉まっていました。なにか
仕事があって、
一人おくれたのか、
普通の
娘さんのようなふうをした
丸顔の
少女が、
横の
入り
口から、
出たのでありました。
正吉は、その
少女を
呼び
止めた。
「すこし
会計が、ちがっていたのですが。」と、いいました。
「
私にはわかりませんが、なにか
余計にいただいたのでしょうか。」と、
少女が
聞きました。
「いや、サイダー二
本の、つけ
落としがあったと
思うのです。」
こういうと、
彼女は、
正直な
人だと
思ったらしく、
軽やかに
笑いました。
「こちらの
手落ちなんですから、かまいませんよ。」といいました。
「
受け
持ちの
女給さんに、
損をかけまいと
思ってきたのです。」
「まあ、ごしんせつに、けっして、そんなことはないんです。それに、もう、みんなしまった
後ですもの。」といいました。
正吉は、そう
聞くと、いくらか
気持ちが
楽になりました。
急いで、
駅に
入ろうとしたときに、
夜遅く、
寒いのに、
外に
立ちながら、
花を
売っている
少女を
見ました。やはり
家のために
働いているのであろうが、あまり
振り
向いて
見るものすらありません。
「そうだ、あの
金で、この
少女の
花を
買ってやろう。」
正吉は、
白い
百合の
花と、
赤いカーネーションの
花を
求めました。
彼は、
駅の
階段を
上りながら、
「たとい、一
銭でもまちがった
金は
受け
取ってはなりませんよ。」と、
教えられた、お
母さんの
言葉を
思い
出しました。もうそのお
母さんは、この
世界のどこを
探してもいられないが、お
母さんの
教えだけは、かならず
守りますと、
正吉は、お
母さんの
霊に
向かって、
誓ったのであります。