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科学雑誌社長スリを働くこと
日期:2023-09-04 15:16  点击:267

科学雑誌社長スリを働くこと


青木愛之助は、そういう場合、無邪気に相手の名を呼んだりしない男であった。
彼は品川が、この人込みの中で、どんなことをするか、ソッと、見ていてやろうと思った。猟奇心のさせる罪の深い業である。
それから殆ど半日を浪費して、彼は品川のあとを、探偵みたいに尾行した。随分根気の要る仕事だったが、この猟奇者は、そういう根気は多分に持合わせていた。
何も知らぬ品川四郎は、人込みから人込みと、縫って歩いた。電気人形の前でも、地獄極楽の前でも、女剣舞の前でも、長い間、田舎者みたいにポカンと 立尽 たちつく していた。
「こいつ、こっそり いかもの 食いに来ていやぁがる。恥しい趣味だものだから、僕にも 内密 ないしょ にしていたんだな。大きなことを云っていて、お前もやっぱり同類じゃないか」
愛之助は、友達の弱味を つか んだ気持で、嬉しくなってしまった。
品川は多くの見世物は、口上を聞く けで素通りしたが、一番大きなテントの娘曲馬団へは、場代を払って這入って行った。
彼はそこの、 むしろ の座席で田舎の兄さんの すね や、娘さんのお尻にもまれながら、窮屈な思いをして、曲馬と軽業を 一巡 ひとめぐり 見物した。青木愛之助も相手に発見されぬ様に行動を共にしたことは云うまでもない。
そこを出たのは、もう夕方であった。見世物にはアセチリン 瓦斯 ガス が、甘い におい を立ててともされた、昼と夜との境、見世物のイルミネーションと、太陽の残光とが、チロチロ 入混 いりまじ って、群集の顔が、ボンヤリとうすれて行く、夢の様に美しい一時である。
品川四郎は、 いかもの 見物にグッタリと疲れた てい で、九段坂を降りて行く。
坂の 半程 なかほど に、オランダ渡りと云った風で、お月様の顔を覗かせる、 遠眼鏡 とおめがね 屋が商売をしていた。安物の天体望遠鏡を据えて一覗き十銭で客を呼んでいるのだ。見ると、いつの間にか、中天に 楕円形 だえんけい に見えるお月様が姿を現わしていた。
品川は、その人だかりに、足を止めて、 しばら く眼鏡屋の口上を聞いていたが、ふと妙なことを始めた。
眼鏡屋のすぐうしろは石垣になっている。槐多の小説の主人公が遺言状を隠した石垣だ。そこの、人だかりで 一際 ひときわ 薄暗くなった箇所へ、石垣の方を向いて、品川がヒョイとしゃがんだのである。
「オヤオヤ、しゃがんで小便でもするのかな。益々品の悪い男だ」
と思って、ソッと見ていると、品川はしゃがんだまま、ウロウロあたりを見廻していたが、丁度人だかりの蔭で、人通りもなく、見ている人もないので、安心したのか、石垣の一つの石に両手をかけると、ズルズルと、それを抜き出したのである。そのあとには、五六寸四方に、薄闇の中でもクッキリと分る程、真黒な穴が出来た。
彼は妙な夢を見ているんじゃないかと疑った。品川四郎と云えば れき とした科学雑誌の社長様である。その品川四郎が、夕闇と群集に隠れて、泥棒みたいにあたりを見廻しながら、九段坂の石垣を抜いている。あり得べからざる光景だ。
「アア、そうか、そうだったのか」青木は腹の中で妙な 独言 ひとりごと を云った。「槐多の小説は本当だったのだ。あすこの石のうしろに、何か隠してあるのだ。その隠し場所を品川が発見して、今中のものを取出そうとしているのだ」
だが、無論それは彼の瞬間的狂気で、そんな馬鹿なことがあろう道理はない。のみならず、品川は何かを取出すのではなくて、反対に、今抜いた石垣の穴へ、何かしら 投入 なげい れて、手早く石を元の通りに差込むと、そ知らぬ振りで、又スタスタと坂道を降りて行くのであった。
むらむらと 湧上 わきあが る好奇心が、人の悪い尾行慾に打勝った。それに相手はもう帰ろうとしているのだ。
青木愛之助は小走りに坂を降りて、品川四郎に追いつくと、彼の背中をポンと叩いて、
「品川君じゃないか」
と声をかけた。
相手はギョッとして振返った。間近で見ても間違いもなく品川四郎である。だが、彼はとぼけた顔をして、 にわ かには返事をしなかった。
「オイ、どうしたんだ。見世物見物かね」
愛之助はもう一度言葉をかけた。
ところが、品川の方では、やっぱりキョロンとして、 せぬ顔をしている。そして、変なことを云い出すのだ。
「あなたは誰です。今品川とかおっしゃった様ですが、僕はそんな者じゃありませんよ」
愛之助はポカンとしてしまった。
その隙に相手は、
「人違いでしょう。失礼」
と捨ぜりふで、ドンドン向うへ行ってしまった。
青木は、「やっぱり俺は夢を見ているのか」と思った程、びっくりした。生れて初めての不思議な経験だった。
断じて人違いではない。あれ程長い間尾行したんだから、よく似た別人なら、気がつく はず である。と同時に、彼が品川四郎その人でないことも、当人がキッパリ云い切ったのだから、これ程確かなことはない。変だ。
愛之助はこの奇妙な出来事に、何だか胸が、ドキドキして来た。
「そうだ。あの石垣を調べて見よう。何か分るかも知れない」
猟奇者は、彼の日頃熱望する猟奇の世界へ、今や一歩を踏み入れた訳である。
急いで元の遠眼鏡屋のうしろへ戻って、人に見られぬ様に注意しながら、石垣の石を、あれこれと動かして見た。一つ丈け動くのがある。
両手でその石を抜いて、真黒な穴の中へ 怖々 おずおず 手を入れて見た。案の定、手に触るものがあった。
取出す。一つ二つ三つ……合計六個の、なんと、 蟇口 がまぐち が這入っていたではないか。一つ一つあけて見たが、中はいずれも空っぽだ。
愛之助は慌てて、それを元へ戻し、石で ふた をした。そして、彼自身泥棒ででもある様に、ビクビクしてあたりを見廻した。
さっきの男が、(品川四郎とそっくりの人物が)この様なものを、ここへ隠したからには、彼はスリであったのだ。しかも中々 玄人 くろうと のスリだ。空財布の処置にまで、周到な注意をして、共同便所へ捨てる様なことはしないで、先ず絶対に発見の おそ れなき、石垣の石のうしろへ隠す程の奴だから、どうして 素人 しろうと の出来心ではない。それに何百円の収穫か知らぬが、財布が六個だ。
道理で、 彼奴 きゃつ 、人込みばかり って歩くと思った。見世物に気をとられている様な風をして、その実隣近所の人の財布を狙っていたのだ。
「実に 滑稽 こっけい だぞ。品川の奴、いやがらせてやらなくてはならぬ。僕が君と間違えて声をかけた奴が、スリだった。顔から形から君と寸分違わぬスリだった。間違って 捕縛 ほばく されぬ用心をしたまえってね」
愛之助は見世物以外の、予期せぬ収穫に興じながら、停留所の方へ歩いた。
「だが待てよ」
彼はふとある事に気づいて、立止った。
「馬鹿馬鹿しい、マッカレイの小説じゃあるまいし、あんなに寸分も違わぬ人間が、この世に二人いるものだろうか。それに、品川四郎が 双生児 ふたご だという話も聞かぬ。こいつは、ひょっとしたら」
と、そこで彼は、友達の悪事を喜ぶ、人の悪い微笑を らした。
「やっぱり、あれは品川四郎だったに違いない。雑誌社の社長だって、スリを働かぬと きま った訳ではない。品川の奴聖人ぶっているが、その実あんな病気があるのかも知れぬ。 夜半 よなか 行燈 あんどん の油をなめたお姫様さえあるんだからな。そう考えると、貧乏人の品川が、今の雑誌を自分のものにしたのもおかしいぞ。飛んでもない所から資金が出ているのじゃないかな。奴はスリばかりでなく、外にも、もっともっと悪事を働いているのかも知れぬて。
そうだそうだ。その病気を俺に見られたと思ったので、奴め、空っとぼけて、自分とよく似た別人がある様に見せかけたのだ。泥棒をする程の彼だから、お芝居もうまいに違いない」
愛之助は、そう結論を下した。だが、その為に彼は品川を非難する気にはなれなんだ。平凡な常識家と軽蔑していた彼が、今までと違った偉い男に思われさえした。
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09/28 03:23
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