名探偵
この悲鳴を聞いて、真先に駈けつけたのは、兄の守と、殿村夫人と、一人の書生とであった。
誰が先にともなく、湯殿の中へなだれ込むように入って見ると、タイル張りの洗い場一杯に、珠子の白い身体が長々と横たわっていた。
「守さん、あれを、あれを」
珠子の身体に近寄りかけて、
俯伏しになった珠子の、美しい背中に、ポッツリと赤い
珠子はこの毒虫に刺し殺されたのか。イヤイヤそんな筈はない。春川月子の場合と同じように、それは蠍の死骸に過ぎないのだ。悪魔の紋章に過ぎないのだ。
守は珠子の上にしゃがんで、その赤い虫をパッと払いのけた。やっぱり死骸であった。払い飛ばした毒虫は、湯殿の隅に、じっと動かないでいる。
「珠子、珠子」
守は妹の身体を抱き上げて、傷口を
名を呼びつづけて、上半身を
「早く、早く」
彼女はひからびた唇を動かして、しきりと窓を指さしている。では、窓の外に何者かが忍び寄っていたのか。
それも検べて見なければならぬ。だが、珠子の手当ても肝要だ。それに第一、若い女の裸身をいつまでも人目に
「君はあっちへ行ってね、代りに婆やをよこしてくれ給え」
守は先ず書生を去らせて置いて、
「先生、僕は外を検べて見ますから、ここをお願いしますよ」
と、彼自身も湯殿の外に出た。
焚き口へ廻って見ると、受持の女中が、庭に出て、キョロキョロとあたりを見廻していた。
「オイ、今そこを誰か通らなかったか」
声をかけると、女中はギョッとした様に振向いて、
「アノ、お嬢さまがどうかなすったのでございますか」
とおずおずと訊ねる。
「ウン、気絶していたんだ。誰か窓の外から覗いた奴があるらしい。お前気がつかなかったかい」
焚き口の戸は開いたままになっていて、湯殿の窓に近づく為には、その戸の前を通る
「イイエ、誰も、ここを通ったものなんかございません。わたくし、さっきから、ずっと戸口の方ばかり向いていたのですけれど」
「おかしいな。ではここから覗いたんじゃなかったのかしら」
守は問題の窓の所へ歩いて行って、すぐその前の板塀についている
「お前、珠子の叫び声を聞いて、すぐにこの庭へ飛び出したのかい」
女中を顧みて訊ねると、
「ハイ、すぐにでございます」
「誰もいなかったんだね」
「ハイ」
「この塀をのり越した奴を、お前気づかなかったんじゃあるまいね」
「イイエ、そんなこと決してありません。いくら暗くっても、塀をのり越すのが分らない筈はございませんわ」
この女中はなかなかしっかり者であったから、これらの言葉は凡て信用して差支なかった。
又、そのあとで、手提電燈を取寄せて、窓の外の地面を調べても見たけれど、そこは一面に固い土で、足跡らしいものも発見出来なかった。
こうしてあらゆる通路が否定されて見ると、結局、湯殿の窓に近づいたものはなかったのだと考える外はない。
それにも
「決してあたしの気のせいじゃありません。気のせいやなんかで気絶する人があるもんですか。確かに確かに、あの窓から覗いた奴があるんです。色眼鏡をかけて口髭を生やしていたことも、決して間違いはありません」
と主張してやまぬのだ。
その上、珠子が幻を見たのでない、れっきとした証拠が残っている。絵の具を塗った蠍の死骸などが、ただ訳もなく湯殿の中に落ちている筈がないではないか。青眼鏡の怪物でなくて、誰がこんな変てこな真似をする奴があるものか。
しかも、その曲者の侵入した形跡が少しもないのだ。ここに一つの不可能が
珠子は医師の手当てを受けて、床についてはいたけれど、恐怖の余り失神したというだけであって、別に心配する容態ではなかったが、この出来事によって、悪魔の予告は決して
相川操一氏は、丁度その時分、事業上のある
「でも、何だか
殿村夫人は、兇賊の予告を軽蔑していた丈けに、このまざまざとした事実を見せつけられては、もうじっとしていられないという風であった。
「僕もそう思いますね。こんなずば抜けた悪党と戦うには、ただ力だけでは駄目です。相手が魔法使なら、こちらも魔法使に加勢を願う外ありません」
守も「探偵さん」らしく主張した。
「お前が加勢を頼みたい魔法使というのは、例の
操一氏はこの数日来、三笠龍介という私立探偵の名をうるさい程聞かされていたのだ。
「そうです。こうなったら、もうお父さんも不賛成ではないでしょう。あの人を依頼する外に手はないと思います」
「お前はその人を知っているのか」
「会ったことはありませんけれど、手柄話は色々聞いてます。日本のシャーロック・ホームズと云われている人です。警察の手におえない事件を、片っぱしから、この人が解決していると云ってもいい程です。ただ、非常な変り者で、余程気に入った事件でないと引受けない
「若い人かね」
「ところが余り若くないのです。寧ろ老人といった方がいい位です。写真で見ると、モジャモジャと顎髭なぞ生やした、
「殿村さん、どうでしょう、そういう私立探偵を頼むことは」
操一氏は一応、老練な家庭教師の意見を訊ねて見た。
「わたくしも、御依頼になった方がいい様に思います。珠子さんの命にかかわる事ですもの、手を尽せる丈けは尽したいものでございます」
と云うことで、結局三笠氏を頼むことに一決したが、急ぐことだから、こちらから出向いて、詳しい事情を話す方がよい。それには犯人の顔まで見知っている守が適任だ。ということになり、電話番号を検べて、先方の都合を訊ねると、丁度今外出中で、十時頃にならなければ御帰りがないという返事であった。
守青年は、夜の更けるのを待ちかねて、この