絶体絶命
相川邸の門前の暗闇に、一台の自動車が停っていた。偽探偵の怪人物が待たせて置いた車だ。
人目を
自動車が走り出すと、操一氏は
先ずこれで一安心というものだ。いずれは弟の家も敵に悟られようけれど、その時は又別の隠れ家を探せばよい。三笠探偵の助言のお蔭で、今夜失うかも知れなかった命を、一日でも二日でも延ばすことが出来たのだ。
守のことも心配ではあるけれど、まだ誘拐されたと
いくら考えて見た所で、もうこれ以上何の方法もないのだ。あとは運命の神様に任せて落ちついているがいい。殊に味方には大探偵三笠龍介氏がついているではないか。
操一氏はそんなことを考えながら、気が落ちついて来るに随って、知らず
置き忘れたのではない。そのシガレット・ケースは、さい前自動車へ乗る時に、偽の三笠探偵が素早く袂から抜き取って、自分のポケットへ納めてしまったのだが、まさか探偵がスリに早変りをしようなどと、誰が気づき得たであろう。
「相川さん、煙草なら、これを一つやって見て下さらんか。わしは煙草丈けは
偽探偵は目早くそれと見て取って、ポケットから用意の葉巻を出して、相川氏に勧めた。
アア、危ない。その葉巻には、どんな仕掛けがあるかも知れたものではないのだ。併し、それとも知らぬ操一氏は、嬉し相に好物の葉巻を受け取って、吸口を噛み破り、火をつけてしまった。
「
「イヤ、実に結構です。騒ぎにまぎれて、ずっと煙草を吸わないでいたものですから、又格別の
車内には紫の煙が
偽探偵は、煙草をふかし続ける操一氏を横目に注意しながら、死人のようにグッタリとクッションに沈み込んでいる珠子に、さも親切らしく、色々と慰めの言葉を囁いていたが、車が三十分も走った頃には、又しても彼女の柔かい手を取って、執拗に
そぞろ心の珠子も、遂にはそれを悟らない訳には行かなかった。彼女の手に伝わる感触には、脅えた少女を力づけるというようなものではなくて、いやらしい一種の情熱があった。しかも更に異様なことには、それは決して老人のひからびた手ではなく、ニチャニチャと油っこい壮年者の手であった。
それとなく振りほどこうとしても、不気味な男の手は、吸盤でもついているように、変にからみついて離れぬばかりか、一層強い力で握りしめて来るのだ。手の平がピッタリ密着して、相手が力を加える度に、油汗にヌラヌラと辷るいやらしさ。
「お父さま、あたし何だか気分が……」
そうでもすれば手を離すかと、隣の父に声をかけたが、これはまあ、どうしたことだ。操一氏は葉巻を落して、ポカンと口をあいて、いぎたなく眠りこけていたではないか。
「お父さま、お父さま」
いくら揺り動かしても、何の反応もない。だらしなく開いた唇から
「お父さま、お父さまってば」
珠子はもう泣き声になって、父に取り
「お嬢さん駄目だ駄目だ、いくら
老探偵が、突然若々しい声になって、ならず者のような口を利いた。
珠子はハッとして、三笠氏の髯むじゃの顔を凝視した。髯の中から、厚ぼったい唇がニヤニヤ笑っている。
「なぜです。お父さまはなぜ起きないのです。あなたがどうかなすったのですか」
「お父つぁん、余り葉巻を召し上ったもんだから、こんなになっちまったのさ。ハハハ……」
偽探偵が毒々しく云い放った。
「それじゃ、あの葉巻は……」
「ちゃんと、眠り薬が仕込んであったのだよ。お嬢さん、おとなにしていらっしゃい、もうあんた一人ぽっちになってしまったんだからね。ハハハ……」
「誰です。あなたは一体誰です」
珠子は色を失った唇をワナワナ震わせて、死にもの狂いの気力で叫んだ。
「アア、なんて美しいのだろう。あんたがそうして怖がっている顔は、実にたまらないですぜ、お嬢さん」
怪人物は、ソロソロと彼女の肩へ手を廻しながら、いやらしく笑った。
珠子はもう身体がすくんで、口は乾き切って、声を出す力もなく、捉えられた美しい小鳥のように、息遣い烈しく、うち震うばかりであった。
アア、もう絶体絶命だ。
珠子は妖虫の毒手を逃れようとして、却って当の赤蠍の手中に陥ってしまったのだ。老探偵に変装していた奴が、赤蠍の一味であることは云うまでもない。その外に、運転台には二人の屈強な男が頑張っている。運転手も助手も同じ仲間なのだ。そうでなくては、偽探偵がこんな大胆な
自動車はどこへ行くのか、郊外の真暗な道を、矢の様に走っていた。窓を開いて助けを求めようにも、両側はうち続く並木と
アア、本物の三笠探偵は何をしているのだ。彼の大言壮語はどうなったのだ。彼が保護を請合った珠子の命は風前の燈火ではないか。今こそ老探偵の力を
併し、いかな手品師の名探偵も、風のように疾走するこの自動車を、どう止めることが出来るだろう。賊の自動車は一台きりだ。あとをつけている車などは全く見当らぬ。