藪 の中の美少女
白髪の
珠子はもう目をつむっていた。
薄暗く
万が一にも、助かる見込みなぞありはしない。頼みに思う父の操一氏は、麻酔の夢さめやらず、車の烈しい動揺も知らぬげに、眠りこんでいるし、運転手と助手とは、神経のない自動人形の様に、広い二つの背中を見せているばかりだし、窓の外は、もう一時に近い夜更け、しかも淋しい生垣道、通りかかる人もない。
絶体絶命の苦悩を通り越して、珠子は気が遠くなって行く様に感じた。そして、不思議なことには、毒虫の厚ぼったい鋏の圧力が、そのネットリとあぶらぎった感触が、烈しい動物の体臭が、寧ろ甘く好もしいものにさえ感じられた。
彼女は夢を見はじめたのだ。とりかえしのつかぬ恐ろしい悪夢にうなされはじめたのだ。
「ウフフ……、お嬢さん、どうしたんだね。馬鹿におとなしくなってしまったじゃないか」
悪魔が歓喜に震える嗄声で云った。
彼の大胆な二本の腕が、不恰好に伸びて、しなやかな肉塊をしめつけた。そして、醜い悪魔の顔と、紙の様に血の気の失せた美しい顔とが、目と目とが、唇と唇とが、五寸の近さで真正面に向き合った。
アア、一転瞬にして、珠子の
だが、神様はそれ程寛大ではなかった。かかる
丁度その時、運転台から、叱りつける様な慌しい
悪魔はギョッとして顔を上げた。すると、その醜く
偽探偵の悪魔は、珠子の唇を盗むどころか、今は、その唇を蓋することを考えなければならなかった。こんな町中で、彼女に叫び出されでもしては一大事だ。
だが流石に兇賊、慌てふためきながらも、手早くポケットから毛の手袋を取り出し、それを丸めて珠子の口へグイグイと押込み、上から大型ハンカチでしばりつけて、早速の
「チッ、なんてえドジな奴らだ。もうちっとばかし暗い町を走ってくれたって、よさそうなもんじゃねえか」
偽探偵がいまいまし相に舌打ちすると、運転手の男は、振向きもしないで、ぶっきら棒に答えた。
「だって親方、お指図通りの廻り道をして、もう三河島へ来てしまったんだぜ。もう五六町で目当ての場所だ」
「ウン、そうか。もう来たのか。じゃ仕方がねえ。早くあの幽霊屋敷へつけてくんな」
珠子は息苦しい猿轡に、悪夢から醒めて、現実の意識でこの会話を聞取った。そして、幽霊屋敷という言葉に、今までとは別様な、もっと子供らしい恐怖に脅えないではいられなかった。
彼女も窓の外を見ることが出来たが、そこはまばらに街燈の立並んだ、広いアスファルトの新道路であった。皆戸をたててしまっていたけれど、両側には場末らしい店屋が
こんなゴタゴタした場末町の近くに、幽霊屋敷があるのかしら。幽霊屋敷なんてもっと荒涼とした野末か山の奥にふさわしいものではないだろうかと、世間を知らぬ少女にも、何とやらいぶかしく感じられた。
アア、幽霊屋敷。
若し猿轡がなかったら、珠子は恥も外聞もなく、死にもの狂いの叫び声を立てたことであろう。だが、それすら今は
自動車が速度をゆるめて、大きくカーヴしたかと思うと、今までチラチラと窓をかすめていた街燈の光が、パッタリ
「サア、お前達は二人で、このお嬢さんを運ぶんだ。手荒なことをしちゃいけないぜ」
偽探偵が指図をすると、運転台の二人は、黙々としてそれに従った。
「サア、もうおろしてもよかろう。
偽探偵が案内する様に先に立って、暗い建物の入口へと近づいて行った。
すると、珠子の足を持った小柄の運転助手が、手を離し、がっしりした大男の運転手が、異様に物やさしく彼女を立上がらせてくれた。なぜだろう。こいつまでが、彼女に野心を抱いていたのかしら。それとも……。
だが何を考える
「お前は入口の見張番だ。いいか、変な気配がしたら、例の合図を忘れるんじゃねえぞ。それから、自動車の中でお
懐中電燈の狭い光がチロチロと動く中を、背の高い方の部下が、指図に従って外へ出て行くのが見えた。その大男は古びた背広の襟を立てて
では、もう一人の小男の方はと見ると、これはじっとそこに立っていたので、やや明瞭に見て取ることが出来たが、こうした悪者達のならわしでもあろう、やっぱり背広の襟と鳥打帽とで、顔を隠し、その上このちっぽけな男は、御丁寧にも、黒いスカーフで、丁度珠子の猿轡と同じ様に、鼻の上まで包んでいた。そして、鳥打帽のひさしとスカーフの間には、大きなロイド眼鏡がキラリと光っているのだ。
だが、懐中電燈の狭い光が照らし出したものは、この二人の男だけではなかった。珠子は同時に、彼等の背景を
オヤ、変だ。今暗い建物の中へ担ぎ込まれたと思ったのに、では、やっぱりまだ外にいたのかしら。
それにしても、こんな町中に竹藪が続いているというのは、実におかしい。ひょっとしたら、さっきからの数々の恐ろしい出来事は、みんな夢なのじゃあるまいか。イヤ、今夜の事だけでなくて、そもそも赤蠍なんてお化けみたいな怪物が出現した最初からして、
珠子は闇の中の竹藪と、その前を影の様に動いている三人の悪党の異様さに、ふとそんな気やすめを考えたが、若しこれが悪夢であったとしても、その本当の恐ろしさは、まだまだこれからあとに、ウジャウジャと待ち構えていたのだ。