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藪の中の美少女
日期:2023-09-13 23:56  点击:240

やぶの中の美少女


白髪のかつら、白髪のつけ髭をした、偽物の三笠探偵は、変装とは全く違った中年男のネットリとあぶらぎった手の平で、か弱い珠子の五本の指を、愈々強く握りしめながら、徐々に徐々に、もはや抵抗力を失った彼女の全身を、彼の厚い膝の上へと引寄せて行った。
珠子はもう目をつむっていた。
薄暗く狭苦せまぐるしい自動車の箱の中に、ムッとする男の体臭丈けが、熱い風の様に感じられた。とうとうその時が来たのだ。巨大な蠍は真赤な鋏で、彼女をおさえつけてしまったのだ。今にも、毒虫の尻尾がキュウッと醜く曲って来るのだ。そしてあの毒液が、人を気違いにする毒液が、彼女を殺してしまうのだ。
万が一にも、助かる見込みなぞありはしない。頼みに思う父の操一氏は、麻酔の夢さめやらず、車の烈しい動揺も知らぬげに、眠りこんでいるし、運転手と助手とは、神経のない自動人形の様に、広い二つの背中を見せているばかりだし、窓の外は、もう一時に近い夜更け、しかも淋しい生垣道、通りかかる人もない。
絶体絶命の苦悩を通り越して、珠子は気が遠くなって行く様に感じた。そして、不思議なことには、毒虫の厚ぼったい鋏の圧力が、そのネットリとあぶらぎった感触が、烈しい動物の体臭が、寧ろ甘く好もしいものにさえ感じられた。
彼女は夢を見はじめたのだ。とりかえしのつかぬ恐ろしい悪夢にうなされはじめたのだ。
「ウフフ……、お嬢さん、どうしたんだね。馬鹿におとなしくなってしまったじゃないか」
悪魔が歓喜に震える嗄声で云った。
彼の大胆な二本の腕が、不恰好に伸びて、しなやかな肉塊をしめつけた。そして、醜い悪魔の顔と、紙の様に血の気の失せた美しい顔とが、目と目とが、唇と唇とが、五寸の近さで真正面に向き合った。
アア、一転瞬にして、珠子のけがれを知らぬ、花びらの様な唇は、その気高いほこりを失おうとしているのだ。
だが、神様はそれ程寛大ではなかった。かかる汚辱おじょくをそのままお見逃しにはならなかった。
丁度その時、運転台から、叱りつける様な慌しい咳払せきばらいの声が聞えた。仲間内には意味の通ずる警告の合図だ。
悪魔はギョッとして顔を上げた。すると、その醜くゆがんだ顔を、ガラス越しに、まぶしい後光ごこうが照らしつけた。イヤ、この場合、光を恐れる悪魔に取っては、神様の後光とも見える、立並ぶ街燈の電光であった。車はいつしか、又もや明るい市街にさしかかっていたのだ。夜更けとは云えチラホラ人通りがないではない。気がつくと、向うには交番の赤い電燈さえ見えている。
偽探偵の悪魔は、珠子の唇を盗むどころか、今は、その唇を蓋することを考えなければならなかった。こんな町中で、彼女に叫び出されでもしては一大事だ。
だが流石に兇賊、慌てふためきながらも、手早くポケットから毛の手袋を取り出し、それを丸めて珠子の口へグイグイと押込み、上から大型ハンカチでしばりつけて、早速の猿轡さるぐつわをはめてしまった。
「チッ、なんてえドジな奴らだ。もうちっとばかし暗い町を走ってくれたって、よさそうなもんじゃねえか」
偽探偵がいまいまし相に舌打ちすると、運転手の男は、振向きもしないで、ぶっきら棒に答えた。
「だって親方、お指図通りの廻り道をして、もう三河島へ来てしまったんだぜ。もう五六町で目当ての場所だ」
「ウン、そうか。もう来たのか。じゃ仕方がねえ。早くあの幽霊屋敷へつけてくんな」
珠子は息苦しい猿轡に、悪夢から醒めて、現実の意識でこの会話を聞取った。そして、幽霊屋敷という言葉に、今までとは別様な、もっと子供らしい恐怖に脅えないではいられなかった。
彼女も窓の外を見ることが出来たが、そこはまばらに街燈の立並んだ、広いアスファルトの新道路であった。皆戸をたててしまっていたけれど、両側には場末らしい店屋がのきをつらねていた。
こんなゴタゴタした場末町の近くに、幽霊屋敷があるのかしら。幽霊屋敷なんてもっと荒涼とした野末か山の奥にふさわしいものではないだろうかと、世間を知らぬ少女にも、何とやらいぶかしく感じられた。
アア、幽霊屋敷。つて女優春川月子が、世にも無残な死をとげたのが、場所こそ違え、やっぱり化物屋敷と云われている空家の中ではなかったか。赤い蠍の怪物は、殊更にそういういまわしい場所を選んでは、犠牲いけにえほふるという、怪物らしい好みを持っているではないだろうか。とすると、今こそ彼女の最期さいごが来たのに違いない。一寸だめし五分だめしのむごたらしい死期が迫ったのに違いない。
若し猿轡がなかったら、珠子は恥も外聞もなく、死にもの狂いの叫び声を立てたことであろう。だが、それすら今はかなわぬのだ。もがこうにも、悪魔の腕が万力まんりきの様に引締めている。僅かに靴の先で、運転手の腰かけの背中を蹴るばかりだ。
自動車が速度をゆるめて、大きくカーヴしたかと思うと、今までチラチラと窓をかすめていた街燈の光が、パッタリ途絶とだえて、両側が真暗闇になった。そして、その闇の中を少し行くと、車は何か大きな建物らしいものの前に停った。燈火も何もない、黒い大入道おおにゅうどうの様な異様の建物だ。
「サア、お前達は二人で、このお嬢さんを運ぶんだ。手荒なことをしちゃいけないぜ」
偽探偵が指図をすると、運転台の二人は、黙々としてそれに従った。ドアを開閉する音も静かに、珠子の身体は軽々と車の外へ運び出され、一人は頭部を、一人は足を、二人の男手にしっかと支えられて、藻掻もがくにも藻掻かれず、彼女は闇の中をフワフワと漂って行く感じであった。
「サア、もうおろしてもよかろう。かついで行ったんじゃ曲がない。お嬢さんにあんよをして頂くんだ。……お嬢さん、サアお歩きなさい。今に面白いものを見せて上げますぜ」
偽探偵が案内する様に先に立って、暗い建物の入口へと近づいて行った。
すると、珠子の足を持った小柄の運転助手が、手を離し、がっしりした大男の運転手が、異様に物やさしく彼女を立上がらせてくれた。なぜだろう。こいつまでが、彼女に野心を抱いていたのかしら。それとも……。
だが何を考えるひまもなく、偽探偵の悪魔の手が、闇の中にニュッと伸びて、やっと立上った珠子の手首を、しっかり掴むと、どこに用意していたのか、サッと懐中電燈を照らして、二人の部下の方にさし向けながら、命令した。
「お前は入口の見張番だ。いいか、変な気配がしたら、例の合図を忘れるんじゃねえぞ。それから、自動車の中でおやすみになっているお方も、よく気をつけているんだ。まだまだ容易に目を覚しやしめえけれど」
懐中電燈の狭い光がチロチロと動く中を、背の高い方の部下が、指図に従って外へ出て行くのが見えた。その大男は古びた背広の襟を立てて口辺こうへんを隠し、鳥打帽を思い切り深く冠って両眼までも隠す様にしていたので、咄嗟の場合、動揺する懐中電燈の光では、顔なぞ全く分らなかった。
では、もう一人の小男の方はと見ると、これはじっとそこに立っていたので、やや明瞭に見て取ることが出来たが、こうした悪者達のならわしでもあろう、やっぱり背広の襟と鳥打帽とで、顔を隠し、その上このちっぽけな男は、御丁寧にも、黒いスカーフで、丁度珠子の猿轡と同じ様に、鼻の上まで包んでいた。そして、鳥打帽のひさしとスカーフの間には、大きなロイド眼鏡がキラリと光っているのだ。
だが、懐中電燈の狭い光が照らし出したものは、この二人の男だけではなかった。珠子は同時に、彼等の背景をしている、打続く深い竹藪を見て取ることが出来た。彼等が動くたびに、竹の葉がガサガサと鳴る音をも耳にした。
オヤ、変だ。今暗い建物の中へ担ぎ込まれたと思ったのに、では、やっぱりまだ外にいたのかしら。
それにしても、こんな町中に竹藪が続いているというのは、実におかしい。ひょっとしたら、さっきからの数々の恐ろしい出来事は、みんな夢なのじゃあるまいか。イヤ、今夜の事だけでなくて、そもそも赤蠍なんてお化けみたいな怪物が出現した最初からして、ことごとく長い悪夢のつづきなのではあるまいか。
珠子は闇の中の竹藪と、その前を影の様に動いている三人の悪党の異様さに、ふとそんな気やすめを考えたが、若しこれが悪夢であったとしても、その本当の恐ろしさは、まだまだこれからあとに、ウジャウジャと待ち構えていたのだ。
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09/27 17:23
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