水水水
だが、底知れぬ明智の胆力は、この土壇場を平気で笑い飛ばすことが出来た。虚勢と言えば虚勢である。併し、彼の心の内に一種不思議な感じが湧上っていた。何かしら神秘な予感があった。その微妙なものの力によって、彼は最後まで自信を失わなかった。
「お祭騒ぎは止し給え。相手はたった一人なんだぜ。しかも身動きも出来ない程縛りつけられているんだぜ。君達はこの僕がそんなに怖いのかね。ハハハハハハハ、こんなになってもまだ平気でいる僕が、薄気味悪いのかね」
道化師はそれを聞くと、何を思ったかギョッとした様に一歩後にさがって、
「繩目は大丈夫か」
と覆面の男を振返った。男は明智の側によって、入念に繩の結目を検べ、
「大丈夫です」
と答えた。
「よし、それじゃ、愈々最後だぞ。文代その男の腕をまくるんだ」
文代と呼ばれた美しい娘は、繩の喰入った明智の腕をまくろうとして、二三歩前に進んだが、この場の激情的光景に耐え兼ねたのか、真青になって、フラフラと倒れかかった。
「馬鹿、どうしたんだ」
道化師が娘を支えて怒鳴ったので、彼女はやっと気を取直して、明智の上にかがみ込み不器用に、長い間かかって、洋服の腕をまくった。
明智はその時、娘の美しい顔が、目の前に迫って、意味ありげにじっと彼の目を見つめているのを感じた。スースーとはずんだ呼吸の音や、早まった心臓の鼓動さえ聞取れる様な気がした。
次の瞬間、娘の一方の手が彼の背中に廻ったかと思うと、明智はうしろに組んでいた手先に鋭い痛みを感じ、アッと声を立てようとしたが、娘の哀願する様な一種異様の目くばせを見てじっとそれをこらえた。
彼女は腕をまくり終って人々のうしろに退くと、道化師は注射器をかざす様にして、明智の側にしゃがみ、空いた手であらわな腕の肉をつまみ上げ、ジリジリと注射器の針を近づけて行った。
その時、突然非常に変なことが――当の明智さえびっくりした様な出来事が起った。ガチャンとひどい音がしたかと思うとランプが消えて室内が真暗になり、熱いガラスの破片がバラバラと人々の上に落散った。誰の仕業か、天井の空気ランプに何かをぶっつけたのだ。
「ぶっ放せ。ピストルをぶっ放せ」
道化師の極度に狼狽した声が闇の中に響いた。彼は明智小五郎が何かしら不思議な力でこの椿事を惹起したものと思込んだのである。だが、明智自身も何が何だかさっぱり分らず、思いがけぬ幸運をいぶかるばかりであった。
続いて起る銃声一発二発、ただ闇の事故仲々命中はしない。
彼はこの幸運を利用して、何とか死地を脱する工夫はないものかと、思わず両腕に力をこめると、不思議不思議、繩がズルズルとゆるむではないか。その時、明智の頭にパッと電光の様にひらめいたものがある。
何ぜか分らぬ。併し、明智を助けたのは文代と呼ばれる賊の娘なのだ。さっき手先に鋭い痛みを感じたのは、彼女が刃物で繩を切った力が余って明智の皮膚を傷けたのだ。彼女は繩を切った上、更らに彼の逃走を容易ならしめる為に、ランプを打ちくだいたのだろう。
「蝋燭だ。文代、蝋燭を持って来るんだ」
道化師が慌てふためいている間に、明智は懸命の努力で遂に繩を抜け出すことが出来た。
黒い疾風が何かにぶつかりながら、室を飛出し、闇の廊下をめくら滅法に走った。そのあとを追って、「逃げた、逃げた」という狼狽の叫声。
幸い行手に別段の障害物もなく、廊下を抜け切ると、夜ながらパッと眼界が開けた。空には一面に星が瞬いている。明智はとうとう家の外へ出たのだ。
だが、背後には、已に、入り乱れた追手の足音が迫り、流弾ばかりだけれど、ピストルの釣瓶撃ち。
明智は、まっしぐらに走った。と、五六歩も行かぬ内に妙な欄干みたいなものに突き当ってしまった。
「アハハハハハハ、驚いたか小僧、ここをどこだと思っているんだ。お前泳ぎが出来るのか。イヤサ、この海が泳ぎ切れると云うのか」
道化師の高笑いに、ハッとして欄干の下を見ると、星明りにもそれと知られる、水、水、水、真黒くうねる、果てしも知らぬ大海原だ。
アア、ここは陸上ではなかったのだ。どこの海かは知らぬけれど、陸地を遠く離れた船の上なのだ。道理こそ、陸上では今時見られぬ石油ランプだ。窓のない密室だ。絶えず眩暈の様に動揺する部屋だ。海が凪いでいた為に、それに余りにも意外な場所なので、まさか船の上とは気づかなんだが、恐らくあの夜、失神している間に自動車からこの船に移され、牢獄船は岸を離れて遠く沖合に乗り出したものに相違ない。アア、船とは、船とは、犯罪者にとって、何という理想の隠れがであろう。
明智とて水泳の心得がないではなかった。併し、見渡す限り水又水のこの大海原を、どうして泳ぎ渡ることが出来ようぞ。うしろには迫る強敵、前には果てしれぬ黒い水、折角ここまで逃れながら、又しても、又しても絶体絶命である。
と、飛鳥の様に飛びかかる黒影、あなやと身構える明智の耳に、意外、味方の文代のいそがしい囁声、
「飛び込む真似をして、船べりに隠れていらっしゃい」
たった一言、黒影はついと離れた。
救い主の忠告である。明智は何も考えずその言葉に従った。
「この位の海が泳げないでどうするものか」
聞えよがしに大きく叫んで、ひょいと欄干を飛越すと、いきなり、もんどりうって、船の小縁にぶら下った。命の瀬戸際の軽業だ。
と同時に、当の明智でさえ自分が落ちたのではないかと疑った程の、ドボンという大きな水音。分った分った。文代の巧みなトリックだ。闇にまぎれて、何かしら重い品物を抛り込んだのだ。
「ヤ、飛込んだ。ボートを出せ、ボートを出せ」
道化師のわめき声、艫の方へ走る三人の足音、そこに小さなボートがつないである。狼狽した三人は、何を考える隙もなく、それをたぐり寄せて乗り込んだ。やがて、水を切るオールの音。ボートは明智の飛込んだと覚しきあたりを漕ぎ廻って、星あかりに海面をすかし見ながら、次第に本船を遠ざかって行く。
「もう大丈夫ですわ。あの人達が帰って来るまで、どっかに隠れていらっしゃい。そしてあの人達と入れ代りに、あのボートで御逃げなさい」
明智が甲板に這い上ると、一生懸命の少女が、彼の耳たぶに温い息をかけて、策を授けた。
「有難う。僕は君のことを忘れませんよ。それにしても、君はどうしてあの連中を裏切って僕の味方をしてくれたんです。君は賊の一味ではないのですか」
明智は少女の手を握って囁き返した。何かしら熱いものが、目の中に湧上って来るのをどうすることも出来なんだ。
「あたし悪者の首領の娘ですの」文代は悲しい声で云った。「でも、でも、あたし、あなたのお名前をよく知っていたのです。そして、お助けしないではいられなかったのです」
少女は激情の余り泣き出しそうにしながら、握られていた明智の手を、じっと握り返した。その指先にこもる異様な情熱。明智は、闇の中ながら、又彼の年齢にも拘らず、少年の羞恥を感じて、思わず顔を赤らめないではいられなかった。