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いまわしき前兆(1)
日期:2023-10-02 23:49  点击:308

いまわしき前兆


 皆さん、わしのその二年間の様に、何から何までよいことずくめの折には、夢々油断をしてはなりませんぞ。運命の鬼奴(おにめ)は、甘い餌物(えもの)を与えて、人の心をためすのだ。そして、ちょっとでも心に隙があったなら、大きな真黒な口を開いて、ガブリと人を呑んでしまうのだ。お多福(たふく)の面のうしろ側には、怖い鬼の面が隠れているのだ。
 わしはあんまり幸福すぎた。それに殿様育ちのお坊ちゃんで、世間というものを、まるで知らなかった。
 丁度結婚後二年目の終りに、わしはチフスを(わずら)って、しかもそれがこじれて、三月というもの、病院生活をしなければならなかった。と云って、何もそれが、直接わしの幸福を奪ったというのではない。長びいたけれど病気は全快したのだ。全快したばかりか、チフスという病の有難いことには、それまで何となく弱々しかったわしの身体が、病後はめっきり健康になった。一度抜けた髪の毛も、前にもまして黒々と生え揃った。年までも、二つ三つ若返った様な気がした。
 病中、妻の瑠璃子は毎日病院へ見舞いに来てくれた。川村も妻にまけぬ程、しげしげわしを見舞ってくれた。アア、かたじけないことだ。わしを愛していればこそ、いまわしい伝染病を気にもとめず、瑠璃子は、川村は、わしを慰めに来てくれるのだ。妻や親友が今までの幾層倍も有難いものに見えて来た。――考えて見ると、わしはまあ、何という鈍感なお人好しであったろう。
 ここでまた、恥かしい打開け話をしなければならぬのだが、わしが退院をして二ヶ月余りたった時分のことだ。十日程瑠璃子の気分のすぐれぬことがあって、今日は少しよいと云うものだから、その晩は、久しぶりに彼女の部屋へ行って見ると意外にも、瑠璃子は身を堅くして、わしを拒むではないか。
「コレ、どうしたのだ。さてはお前は、僕をいとわしく思いはじめたのか」
 と、冗談に怒って見せると、あれはさも悲し(そう)な顔をして、
「今まで隠していましたが、わたしはもう、このお(やしき)に置いて頂く訳には参りません」
 と、わしのど胆を抜く様な、飛んでもないことを云い出すのだ。
 わしはもう、泣き相になって、何故そんなことを云うのかと、様々に尋ねて見ると、散々云いしぶったあとで、あれは、とうとうその理由を打開けた。打開けて置いてサメザメと泣き伏した。
 だが聞いて見ると、若い女なんて、そんな下らないことで、これ程の騒ぎをやるのかと、おかしくなる程、些細(ささい)な事柄であった。瑠璃子は、数日前から身体に腫物(できもの)が出来て、少しも直らないというのだ。
「どれ、見せてごらん。そんなこと何でもないじゃないか」
 わしは、又しても甘い気持になったものだ。瑠璃子が些細な腫物さえ、それ程恥かしがるのは、つまりわしの愛を失うのが、死ぬ程つらいからだ。そんなにもわしを大切に考えているのかと思うと、甘い気持にならないではいられなかった。
 又、散々てこずらせた揚句、彼女はやっと少しばかり胸を開いて、その腫物を見せてくれたが、見ると、わしもちょっと、びっくりした。大きな赤い腫物が胸一面に吹き出していたからだ。
「なんだそんなもの。()めろと言えば、甞めて見せるよ」
 と笑いながら、(なお)よく見ようとすると、あれは、手早く胸を閉じて、陰気に沈み込んでしまうのだ。
 無理もない無理もない。日頃から、瑠璃の様に美しい肌を誇っていた彼女にして見れば、世間普通の女と違って、美しい丈けに、その美が少しでもそこなわれると、これ程までに恥かしく、悲しいのだ。
 わしは同情して、兎も角医者に見せる様に勧めたが、彼女はそれもいやだと駄々をこね、とうとう強情を通して、売薬の塗り薬かなんかで済ませてしまった。考えて見るのに、彼女は、醜くなった肌を見せる恥かしさばかりでなく、それが性質のよくない発疹(はっしん)であったら、藩主の家の外聞に関わるとでも考えていたらしいのだ。
 売薬で治るかと思うと、なかなか頑強な腫物で、治るどころか、全身に広がり、ついには覆い隠すすべもない、あれの美しい顔にまで出来て来た。
 無論瑠璃子は、一目でも、わしに汚れた肌を見せようとはしなかった。顔には切傷でもした様に、ガーゼを絆創膏(ばんそうこう)でとめて、それ丈けでは承知が出来ず、床についてしまって、わしが見舞に行っても、腫物のない鼻の上丈けを夜具の襟から出して物を云うという、いじらしい有様であった。
 わしは駄々子(だだっこ)の奥さんに、ほとほと[#「ほとほと」は底本では「ほとほど」]困じ果て、川村を呼んで相談すると、彼も、余りに狭い女心を、おかし相に笑ったが、
「だが、無理もないよ。美人にとって、我が美しさが、どんなに大切なものだか、男などには分りゃしないよ」
 と、彼自身並々ならず美しい顔に、同情の色を浮べて、
「いっそ君、温泉にでも転地させて上げたらどうだね。邸をはなれた温泉場の医者なら、診察を受けられるかも知れないし。……」
 と名案を(さず)けてくれた。

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